豊臣秀吉の天下統一から千利休との確執まで詳しく解説するよ

今からざっと500年前、それまで日本を治めていた足利氏の室町幕府が崩壊(ほうかい)した。

それから全国各地の戦国大名が自分の領土を広げようとあちこちで戦いを起こしはじめ、日本中がメチャクチャに乱れた戦国時代になったんだ。

そんな中いまこそ天下統一のチャンスと、彗星(すいせい)のように現れた武将が織田信長。

その主君の死んだあと意志をうけついで天下統一をなしとげたのが豊臣秀吉だよね。

その天下統一へのプロセスやエピソードはたくさん語られているので、そこはチョット遠慮して、

ここでは天下を治めるための政策や心境の変化、秀吉におおきく影響を与えた千利休(茶の道)などにおもきをおいて、

独断と偏見をまじえてはなしてみたいとおもうんだ。

天下平定のための政策

低い身分のひとが大出世して天下をとると、傲慢(ごうまん)な強権(きょうけん)政治になりがちなのは、

中国の秦の始皇帝(しんのしこうてい)や明の洪武帝(みんのこうぶてい)のように歴史が証明しているんだ。

それじゃあ、おなじような境遇(きょうぐう)から天下人となった秀吉はどんな政治をしたんだろう。

刀狩(かたなかり)令

これは百姓一揆(いっき)などで無益な殺しあいをなくすためと、農民と武士の身分をわけることを目的とした政令で3つの条文からなっているんだ。

第1条:農民が刀や脇差、弓、槍、鉄砲などの武器を持つことを固く禁じる。それにそむいたり、年貢をおこたったら罰する。

第2条:取り上げた武器は溶かして、大仏をつくる釘などにする。そうすれば、農民はあの世で救われる。

第3条:農民は農具だけを持ち農業に励めば、子孫代々無事に暮らすことができる。農民を愛するがゆえに武器を取り上げるのだ。

・・・・おもてむきは農民を無益な争いにまきこまず、農民を守るためだといってるけど、真の狙いはほかにあるような気がする。

第2条は秀吉のアイデアがひかるフェイク。じじつ刀の鉄は釘にはむかない、大仏の建造に使われたという史実はどこに

もないんだ。

つまり刀をうまく取り上げるための宣伝文句なんだね。

身分等政令

この政令は、のちの江戸時代・徳川の士農工商のもとになったともいわれている。

武士が町人や商人や農民になるのを禁じ、農民が商人や職人になることを禁止したんだ。

これは朝鮮出兵に向けて、武士の確保そして年貢をおさめる百姓の人員を確保することが目的とされている。

身分を変えちゃいけないっていうけど、えーっだって秀吉は農民から出世して武士のトップ関白になったんだよ、

チョット自分勝手でわがままなんじゃない?。

自分のような成り上がりの出世は、自分だけにしたかったんじゃないのかな。

刀狩令も身分等政令も、良い意味でいえば、世を安定させる賢い策。

悪い意味でいえば、じぶんの地位を守るための強引な策といえるんじゃないかな。

太閤検地(たいこうけんち)

これは全国的に農地をしらべる事業。でもこの政策はまえの2つとまったくちがって、

企画やアイデア、方法には秀吉の先をみる能力や聡明(そうめい)さがちりばめられている画期的なことなんだ。

まず長さの単位を6尺3寸を1間(けん=約191cm)とし、面積(めんせき)は1間4方でかこむ広さを1歩(ぶ=約3.65㎡)と決めたんだ。

これによって、それまでいいかげんだった田畑の面積が、正確に計れるようになったんだ。

現在でも日本家屋は尺や間をもとにたてられているんだ(いまの1間=約181.8cm)。

いまごはんを炊くとき、計量カップで米をはかるよね。当時は木でできた枡(ます)をつかっていたんだ。

ところがこの枡の大きさがバラバラだった、秀吉は米をはかるときは京枡に一本化し、升とか石という量の単位も統一したんだ。

これにより1つの田んぼから何石の米がとれ、年貢がどれだけ納められるかがわかるようになったんだ。

50万石、100万石の大名という領地のあらわしかたもこの米の量なんだ。

現代はメートル法で統一されている、ものを計るには基準の単位が大切って発想は、この秀吉の太閤検地からはじまったんだよ。

傲慢(ごうまん)政治と千利休(せんのりきゅう)

「成金(なりきん)」って言葉がある。

きゅうに大金持ちになって権力を手にすると、性格が変わったみたいに贅沢をしたり、わがままになるってことだよね。

でもこれってお金が性格をかえるんじゃなく、人間がもともと持ってる本能のようなものだと思うんだ。

目標に向かっているときは攻撃的に努力をしたけど、いざ目的をたっせいすると守りの姿勢で消極的になっちゃう。

でも消極的でおくびょうと思われたくないから、かえって逆に金と権力で「強いんだ」とカラ威張りするんだ。

秀吉も例にもれず、贅沢ざんまいと我がままし放題になっちゃた。

それに待ったをかけたのが千利休(せんのりきゅう)なんだ。

茶人・千利休とは

千利休はみなさんも知ってるように日本の茶道の基礎をつくったひと。

「わびさび」をおもんじる茶道と贅沢ざんまいの秀吉とでは水と油のようだけどどうして?

お茶は最初っから「わびさび」ではなく、「茶の湯」といって大名たちの遊びのひとつ、豪華な茶会をひらくのは力を見せつける道具だったんだ。

そこで秀吉も「茶の湯」に力を入れ、お茶の世界でリーダー的そんざいだった利休を大切にしたんだ。

利休も聡明で一途なひと、ものおじせずに意見をズバッというひとだった。

秀吉はムッとしても利休の言葉は的をえてるので一目おいていた。

「秀吉に意見できるのは利休しかいない」といわれるくらいで、たびたび政治的なアドバイスも求めていたらしい。

「茶の湯」から「茶の道」〜利休の切腹

しかし利休はお茶を政治や権力の道具にしてはいけないと考えるようになり、

たんなる遊びじゃなく、もっと純粋に芸術性をたかめ「茶の湯」から、質素なわびさびの心をもつ「茶の道」へと変っていった。

そして秀吉のエスカレートする贅沢や政治を戒めるようになったんだ。

じぶんの意見に逆らってばかりいる利休が、だんだんけむたくなってきた秀吉は、

ちょとしたことでインネンをつけ、ついに切腹をいいわたした。

本音は謝ればゆるすつもりだったけど、一途な利休は秀吉への戒めもふくめ、あえて切腹をうけいれたん

まとめ

豊臣秀吉がせっかくつかんだ天下だけど、その時代は長くつづかなかった。

20年もしないうちに徳川家康に滅ぼされてしまう。中国の秦の始皇帝や明の洪武帝の時代とおなじように、

傲慢(ごうまん)な政治はいっときうまくいっても、すぐにほころびがでて崩壊してしまうんだ。

民衆を権力でむりにおさえこむ政治は、かならず反発をよび短命におわるってことだね(どこかの国のどこかのスポーツ監督のように)

豊臣秀吉について詳しくまとめてたよキッズでも簡単にこれだけ見たらok!

農民から関白(かんぱく=武将のトップ)まで日本の歴史でいちばん出世した人が豊臣秀吉(とよとみ・ひでよし)なんだ。

いまの会社でいえば、平社員にもなれないアルバイトから社長になるようなもの。

じゃどうやって出世したしたんだろう、そんな出世物語やエピソードをみんな話しちゃうよ。

生い立ち

秀吉(ひでよし)が小さいころの名は藤吉郎(とうきちろう)で、あだ名は「小ザル」。

顔がサルににてたのもあるけど、そのころから動きがチョコマカとすばしこかったんだね。

生まれた家はまずしい農家で、お父さんは早くに亡くなり、お母さんは別なひとと再婚(さいこん)しちゃった。

あまりめぐまれた家庭じゃなかったんだ。行商(ぎょうしょう=歩きながらものを売る仕事)のアルバイトをして暮らしていたけど、

どうしてもサムライになりたくて、ついに家出をしちゃったんだ。

はじめての奉公(つとめ仕事)

じつは、はじめての奉公は信長(のぶなが)じゃなく、17才のころに松下家という武家につとめたのが最初なんだ。

学校にも行ったことがない藤吉郎は、ここではじめて字を書くことや学問をまなんだんだ。

そのころ松下家の蔵(くら)でよくものが無くなる事件がおき、ためしに藤吉郎が番をすることになったんだ。

そこで藤吉郎はイヌといっしょに番をすると、それからはものが無くなる事がなくなったってエピソードがある。

アイデアや頭の切れがよかったんだね。

でもチョット優秀だと、ナマイキなやつと同僚たちにねたまれて、松下氏もしかたなく藤吉郎を追い出したんだ。h3.運命の出会い

つぎに秀吉は織田信長(おだ・のぶなが)に仕えることになった。これが人生(出世)最大の出会いなんだ。

信長(のぶなが)は気まぐれでわがまま、でもあたまの回転のよさ、ユニークな発想(はっそう)は「半端ないって」。

秀吉もアイデアやユニークさでは信長にひけをとらない、天才が天才をみとめあう運命の出会いだったんだ。

秀吉が信長のゲタをふところであっためて認められたって話しは、今さらいうまでもないエピソード。

信長のスキルでひとを選ぶ、常識や偏見(へんけん)にとらわれない性格が、秀吉にはおおいに味方して、出世街道まっしぐらってことになったんだ。

このころには名前も木下藤吉郎(きのした・とうきちろう)になって、あだなも小ザルから「サル」に昇格(しょうかく)したんだよ。

もうひとつの出会い

木下藤吉郎(秀吉)の有名なエピソードに墨俣(すのまた)の一夜城(いちやじょう)がある。

一日で城を作ったってのは大げさだけど、そのくらいビックリするスピードで完成させたってことなんだ。

城をつくるには大工(だいく)や土木工事、材料をはこぶなどたくさんの人の力が必要だよね。

信長の家来(けらい)だけじゃたりないんだ。

ところが藤吉郎は、蜂須賀小六(はちすかころく)が親玉(おやだま)の2000人の野武士を味方につけちゃったんだ。

2000人の兵力っていえば数万石の大名とおなじくらいの戦力なんだよ。

まだ無名だった藤吉郎に蜂須賀小六が協力したのは、ひとを引きつける人望(じんぼう)と、ひとをうまく動かす才能があったんだね。

また川を利用して材料をはこぶアイデア(陸をはこぶ何倍ものスピード)で、

ふつう2〜3年かかるところを、あっというまの短期間で城をつくっちゃたんだ、スゴイよね。

本能寺(ほんのうじ)の変

秀吉の活躍(かつやく)もあって、主君の信長(のぶなが)はまわりの敵をつぎつぎと倒し、

天下統一(てんかとういつ)まであと一歩までせまっていた。

秀吉は木下藤吉郎から羽柴秀吉(はしば・ひでよし)となまえをもらい大将にまで出世していたんだ。

そして天下統一の西の強敵、中国地方の毛利(もうり)氏をたおすために秀吉は戦いにでていた。

そのとき京都の本能寺(ほんのうじ)にいた信長が、家来の明智光秀(あけちみつひで)の謀反(むほん)でたおされちゃった。

これが歴史の教科書なんかによくでてくる「本能寺の変」なんだ。

かたき打ちのスピード(半端ないって)

本能寺で信長が死んだ知らせを聞いた秀吉は、いそいで毛利軍をやっつけ、

兵をまとめて岡山から京都まで引き返し、たったの11日で主君のかたき明智光秀をやっつけちゃたんだ。

毛利軍をやっつけた早ワザもすごいけど、

新幹線(しんかんせん)のない時代に岡山から京都までいって、さらに明智軍をたおしたスピードはとんでもない早ワザなんだ。

その時代に兵士は歩くか走るしかないんだよ。馬にのれるのはえらいひとだけ、馬は何時間もはしったら死んじゃうよ。

しかも重たい刀や鎧(よろい)をつけてるんだぜ。

何百キロも走れば兵はみんな疲れきっちゃう、それからまた戦うなんて!これを統率(とうそつ=まとめあげる)した秀吉のスキルは「半端ないって」。

天下統一

主君のかたきをうった手柄(てがら)で、秀吉は織田家のトップの武将としてみとめられ、

総大将として東の最後の強敵・北条氏(ほうじょうし)もたおし、ついに天下統一をはたしたんだ。

そして朝廷(ちょうてい)から豊臣の姓をもらい、日本の武士のトップの位・関白(かんぱく)太政大臣(だじょうだいじん)となったんだ。

名実ともに天下人(てんかびと)になり、はじめて豊臣秀吉と名乗ったんだ。

名無しのゴンベイ

いまのみんなは生まれたときから名字(姓)と名前があるよね。

でも昔は名家の生まれじゃない身分のひくい家では「ゴンベイ」のような名しかなく名字(姓)はないんだ。

功績(こうせき=手柄)をみとめられなければ名前はもらえないんだ。

「名無しのゴンベイ」とは手柄もあげられないで、名字(姓)がもらえない無能って意味なんだ。

秀吉のばあいは、サル→藤吉郎→木下藤吉郎→秀吉→羽柴秀吉→豊臣秀吉と名や姓をつぎつぎともらった、

つまり手柄をみとめられ、どんどん出世したってあかしなんだよ。

まとめ〜天下統一はタナボタ?

豊臣秀吉が天下統一できたのは信長からのタナボタじゃない?っていう人もいるよ。

でもチャンスをものにするってのはそうカンタンなことじゃないんだよ。

ここがチャンスだって見ぬく能力と、たくわえた実力がなけりゃできないんだ。

信長のズバ抜けたスキルを見ぬいてついていった秀吉。そして信長の意志をうけてチャンスを見のがさず天下統一を果たした秀吉。

これって天才が天才へのみごとなバトンタッチじゃないのかな

豊臣秀吉はなぜ出世できたの?その理由を初学者でも分かるように解説するよ!

豊臣秀吉は農民(足軽)という低い身分から、天下人(てんかびと)という日本最高の地位までのぼりつめた、おそらく歴史上もっとも出世した人物だよね。

まるでアメリカンドリームみたいな夢物語。

ではどうしてそんな出世ができたのか、伝えられているエピソード・歩みや生涯などから解きあかしてみたいとおもうんだ。

出世の足取り

秀吉のあだ名は幼いころは小ザル、成長するにつれサル→ハリネズミって変っていくんだ。

これはその顔だちや風貌、すばしこい行動なんかで付けられたとおもう。

それと同じように名前も、

名無しのサル→木下藤吉郎(きのした・とうきちろう)→羽柴(はしば)藤吉郎秀吉→豊臣秀吉(とよとみ・ひでよし)と変っていく。

これは功績がみとめられ出世するたびに信長などからなまえをもらったんだ。

ふつう身分の低いものに姓はなく名だけ、よく無名の人とか名無しのゴンベエなんていうだろ。

姓があるってことはいっぱしに認められたってこと、豊臣家のように○○家を名のれるのはそれなりの地位や城を持つ大名になったなった証拠なんだ。

そんな秀吉の出世の足取りをこれから探ってみよう。

ナゾの生い立ち

秀吉は今からざっと500年まえ戦国時代に、尾張の国(いまの愛知県)の中村いうところの農民の家にうまれたんだ。

父は弥右衛門(やえもん)、母は「なか」(後の大政所)っていうんだけど、うまれた年や誕生日がいつなのかよくわからないんだ。

え〜っておもうけど、よく考えりゃあたりまえのこと。

大名や武将の子どもならわかるけど、無名の農民の子どもの出生をだれが記録に残すっていうの。

秀吉が小さい頃に父親は病気で死んでしまい、母はべつな人と再婚、しばらくはそこで暮らしてたけど、サムライにになりたくて家を出た。

もちろんなんのコネもないのですぐ武家に奉公できるわけがないので、行商のようなことをしてブラブラしてたらしいんだ。

秀吉の幼少についてこれ以外にはほとんど何も記録がなくナゾがおおい。

そもそもだれの子かも不明という説もあるくらいなんだ。貧乏だったむかしのことをあまり言いたくなかったので記録がないのかもね

最初の武家奉公

若くして尾張の国を治めていた天才武将・織田信長(おだ・のぶなが)につかえることで出世したのはよく知られているよね。

でもじつはその前に今川義元の配下の松下之綱(まつした ゆきつな)に仕えていたんだ。

農民の子が、どうやってもぐり込めたのかわからない、持ち前のちゃっかりだったかもね。

その頃には藤吉郎(とうきちろう)と名のっていて、この松下家で文字、学問、武芸、兵法などを学んだって言われている。

正式な家来っていうより、素質をみこまれた勉強性みたいなものだったようだ。

そこでのエピソードに、城の蔵(くら)からよく物がなくなるので、ためしに藤吉郎に蔵の番をさせてみたんだ。

そこで藤吉郎はイヌといっしょに番にたったんだ、それから物がなくなるのが減ったってはなしがあるんだ。

そのころから藤吉郎はすぐれた機知(ウィット)をもってたんだね。でもそれでまわりから妬(ねた)まれちゃう。

気にした松下氏はおしみながらも、藤吉郎にあるていどの金をやって追放したといわれているんだ。

織田信長との出会い

これもまたどうやって織田信長の家らいになったのかは分からない。

でも秀吉が信長に仕えたことこそ、出世街道をかけあがっていけた最大の理由なんだ。

信長はいままでのしきたりや偏見にこだわらない、

ひとを登用(仕事を任命する)するのに年功や身分じゃなく能力で選ぶ、またそれを見抜く力を持った武将だったんだ。

農民の出だろうとかんけいない、はなから藤吉郎のスキルに目をつけていたんだろうね。

それで「サル」って呼びながら、可愛がって(能力をためしながら)仕事をやらせたんだとおもうんだ。

あったかい下駄(げた)

ある寒い夜に信長が下駄はこうとしたら、なぜかほんのりとあったかいんだ。

そこで信長は「おいサル、てめえ下駄にすわっていたな!」っていうと、

「いいえ寒いので懐(ふところ)で下駄を温めておりました」と藤吉郎がこたえたんだ。

それじゃ懐(ふところ)を開けてみろといって見ると、藤吉郎の腹に下駄のあとがくっきりとついていたっていうんだ。

それいらい信長は藤吉郎に目をかけたってエピソードは有名だね。

ほんとの話しかどうかはチョット疑問だけど、そのくらい秀吉は機知(ウィット)に富んでいたってこと。

ご機嫌とりがうまかったのかも知れないけど、とにかく信長をうならせたことにはちがいないよ。

墨俣(すのまた)の一夜城

これも有名なエピソード。一夜ってのは大げさだけど、そのくらいビックリするスピードで築城を完成させたってことなんだ。

信長は美濃(いまの岐阜県)を落とすための拠点として、墨俣(いまの大垣市)に城をつくりたかったんだ。

2度ほど家臣に命じてトライさせたけどぜんぶ失敗。そこで木下藤吉郎が「7日のうちに完成させます」と言上したんで、

それじゃやってみろってんで藤吉郎はまかされ、みごと短期間(7日ってのは後からもられた話し)でやってのけたんだ。

それには蜂須賀小六(はちすかころく)という野武士「川並衆」のとうりょう(頭)の協力が大きいんだ。

この「川並衆」は土木工事・利水工事につよく、舟を操ることや山岳の戦いにもつよい、

どの大名にも属しない独立した約2000人の野武士の集団。

そのころはまだ無名だった木下藤吉郎が、どうやって蜂須賀小六の「川並衆」の協力をてにいれたかはナゾなんだけど、

2000人の兵力っていえば数万石の大名とおなじくらいの戦力なんだよ。

これを味方につけた木下藤吉郎は、木曽川の川を利用して資材をはこぶアイデア(陸上をはこぶ何倍ものスピード)で、

ふつう2〜3年かかる築城をあっというまの短期間でやっちゃたんだ。その功績が認められ秀吉はどんどん出世していくことになるんだ。

本能寺の変

こうやって機知(ウィット)とアイデアで次々と戦果や功績を上げ出世した秀吉は、

信長の天下統一最後の宿敵、中国地方の毛利(もうり)氏をたおす総大将にばってきされ、羽柴(はしば)秀吉と名をもらって姫路城に本拠をおいて戦っていたんだ。

そしてあともう一歩てとこで信長の出馬をまっていたところ、

あの有名な本能寺の変、明智光秀(あけちみつひで)の謀反(むほん)で主君信長が死んでしまったんだ。

それからの秀吉の早さはすさまじい。

対決していた毛利勢をまたたくまに講和にまでこぎつけ、いそいで兵を揃えて高松城(岡山)から京都までひきかえし、

本能寺の変からわずか11日、山崎の戦いで主君の仇(かたき)明智光秀をうちとったんだ。

毛利軍との戦いをおわらせ兵を整え、岡山から京都まで移動して明智光秀をうつまで11日。

いまでこそ新幹線とか飛行機があるけど、当時の移動手段は走るか馬しかないんだよ。

さらに重たい鎧(よろい)や刀を持って走ること想像してごらん、すさまじい強行軍だったとおもうよ。

天下人(てんかびと)豊臣秀吉

こうして信長の意志をうけついで天下を統一した秀吉は、朝廷から豊臣の姓をいただき、

武士のトップの地位・関白(かんぱく)太政大臣(だじょうだいじん)となり、名実ともに天下人(てんかびと)豊臣秀吉にまで出世街道をのぼりつめたんだ。

農民のうまれから、仕官しておよそ30年で足軽から関白まで出世した。

身分の何もないところから最高のトップまでのし上がった人は、歴史上この豊臣秀吉をおいて、ほかにいないんじゃないかな。

まとめ

豊臣秀吉が天下人まで出世できた理由は、すぐれた機知とかスバシコイ能力だけでできるものじゃないとおもうんだ。

奇才といわれた名将・織田信長にひろわれたこと、家臣に戦略の名将・徳川家康がいたこと、野武士の頭・蜂須賀小六とであったこと、

そんなもろもろの運命が天に味方したこと。

よく天才は運をも引き寄せる才能があるっていわれるように、秀吉も運を逃がさない、そんな力があったような気がするん

豊臣秀吉はどんな性格?女性好きって本当?そんな疑問をさぐってみよう

豊臣秀吉といえば農民(足軽)から関白・天下人までになった日本一の出世男。

成金(なりきん)趣味ともいわれているけど、ほんとはどんな性格してたんだろうね。

また英雄いろを好むってよくいわれるけど、秀吉も女好きだったのかな?いろんな伝説やエピソードからさぐってみようよ。

出世のエピソードから

秀吉が幼いころから天下人になるまで、出世にまつわる様々なエピソードが伝わっている。

そのなかには秀吉の性格をよくあらわす話しがいくつかあるんだ。まずはその辺からさぐってみよう。

出生から幼少期はナゾだらけ

秀吉のうまれた年や誕生日は、ビックリかも知れないけど、じつはよくわかってないんだ。

父親が誰なのかも不明だって説があるくらい。大名や名門の生まれじゃない、無名の農民の子に記録がないのは当たりまえっていえば当然。

だけど、偉大になった人は、じぶんの幼少期の記録を自伝などでふつう残すもんだけど、秀吉にはそんな記録がほとんどないのだ。

むしろ隠そうとして、しゃべりたくなかったのかも知れない。身分のひくい貧乏だった幼少期に、すごくコンプレックスをもっていたんだね。

でもコンプレックスがバネになって、バカにされたくない気持ち、

なにくそっていう反発心と出世欲、それに見栄っ張りな性格が見えかくれする気がするんだ。

あだな

秀吉のあだなは、小さいころは「小ザル」若いころは「サル」って呼ばれていたんだ。

それは顔がサルに似てたのかも知れないけど、性格もあらわしていたとおもう。

サルは身体は小さくても、岩山や木のあいだを飛びうつり、すばやく動きまわる。また動物の中ではいちばん頭がよく人まねもする。

つまりこのあだ名は、秀吉の小柄ながら行動のすばやさ、かしこく頭の切れる性格をあらわしているんじゃないかな。

また織田信長に仕えてから7年ぐらいたった頃には「サル」から「ハリネズミ」にあだなが変ってきたんだ。

ハリネズミは背中の毛が針のようにたっていて、危険を察知(さっち)するとからだを丸め、針をたてて身をまもる小ちゃなネズミ。

当時のサムライはチョンマゲを結うために頭のなかほどを剃っていたんだ。

でもしばらく剃らずにいるとちょこちょこと毛がはえてハリネズミのようになるから、そう呼んだかも知れない。

でも信長は秀吉のことを、守りの堅い戦略家、そしてハリネズミのように針をたくさんもっている要注意人物と見抜いていたんじゃないかな。

墨俣(すのまた)の一夜城

まだ無名だった秀吉が世間に知られるようになった功績が墨俣(すのまた)城の築城。

そのころは木下藤吉郎(きのした・とうきちろう)って名のっていたんだ。

信長は美濃(いまの岐阜県)を落とすための拠点としての城をつくりろうと、2度ほど家臣に命令してやらせたけど失敗。

そこで木下藤吉郎が「オレにやらせてくれ」といってみごと短期間で城をつくっちゃったんだ。

それが墨俣(すのまた)の一夜城なんだ。まさか一夜できたわけじゃないけど、そのくらいビックリするスピードだったんだ。

そんな大口をたたいて、もし失敗したら信長の性格からすれば打ち首は必定。はんぱな覚悟や度胸じゃできないよ。

それに成功するという目算や確信がなけれりゃ単なる無謀なバカだよ。

成功のカギは2千人の野武士の親玉、蜂須賀小六(はちすかころく)の協力があったからなんだ。

藤吉郎がどうやって蜂須賀小六を見方につけたんだろう。

人を引きつける性格?話術?もちまえのウイット?どちらにしても命のかかった失敗の恐怖より、

成功して認められたいという欲のつよさが、秀吉の覚悟や度胸をつくっている気がするんだ。

天下人となった豊臣秀吉

目標にむかって走っているときと、目的をたっせいした後で性格が変わるのはよくあることだよね。

でもそれはもともと持っていて隠れていた性格が出てくるのかも知れないけどね。

天下人となった秀吉も同様に変ってきたようにおもう。

いちど権力をにぎると人間はわがままになるか、横暴になるか、それを維持しようとまもりに入るんだ。

いまの日本にも最近のニュースにもそんな話しゴロゴロしてるよね。

刀狩(かたながり)令

秀吉のおこなった政策のひとつに刀狩令がある。これは農民が刀をもつことを禁じ、刀をすべて取り上げちゃったんだ。

おもてむきは百姓一揆(いっき)などで無益な殺しあいをなくすためだけど、

じつは農民と武士の身分をわけること、つまり農民が武士になれないようにする政策なんだ。

エーなんで秀吉は農民の出身じゃない!、そうだよだからこそ自分のような成り上がりの出世は、自分だけにしたかったんだ。

まもりの姿勢そのものだよ。良い意味でいえば、今の世を安定させる賢い政策。

悪い意味でいえば、じぶんの地位を守るための臆病な政策。あなたはどうおもう?

秀吉の女性関係、好みは?

秀吉は25才の頃「ねね」という妻をめとったんだ。

当時の結婚は見合いか(大名や武将の場合)政略結婚がほとんどだけど、秀吉のばあいは一目惚れで求婚しためずらしい恋愛結婚なんだって。

その「ねね」が信長に「最近うちの亭主の浮気が激しくて」ってチクったんだ。

そこで信長はハリネズミ(秀吉のあだな)って秀吉を叱責して「ねね」をなだめたってエピソードがあるんだ。

でも不思議なのは秀吉ははっきりいってイケメンじゃないし、背も高くない、むしろかっこ悪いタイプなのに、なんでそんなに浮気できたの?

不倫はあたりまえ

じつは不倫が罪として罰せられたのは江戸時代から後の時代。なんと古代や中世の日本はフリーセックスだったんだよ。

ためしに「源氏物語」や「百人一首」を読んでごらん、不倫や恋の歌がほとんどじゃないか。

江戸時代でも遊郭や岡場所(お金でセックスが買える、今でいう風俗)で遊ぶことは罪にならなかったんだ。

秀吉の時代でも浮気は、こまった悪いくせ程度のことだったんだ。

でも身分が低くお金もそんなにない、イケメンじゃない男を相手にしてくれる女性がそんなにいるはずないよね。

そんな秀吉に浮気ができたのは、それなりの魅力や好かれる性格を持っていたのかも知れないね。

黄金好きと側室(めかけ)

秀吉が黄金の茶室をたてたことや、豪華で贅沢好き、とくに金色が好きなことは有名。

天下人となり権力と財力を手にしてから秀吉の性格が変わったっていわれる。

おもうように金と力が使えるようになると、タガがはずれて我がままになり贅沢になるのは、人間のもつ本能のような気がするんだ。

秀吉も性格が変わったんじゃなく、本能のままに行動した結果だとおもう。

また秀吉の側室(めかけ)にも特徴があるんだ。

ふつう大名や武将は容姿の美しさや気だての良さで選ぶんだけど、

秀吉のばあいは「ちゃちゃ」織田信長の妹の娘、「まあ姫」加賀の大名前田利家の娘、などの名門の女性・一級品をずらっと11人もかかえていたんだ。

これにも農民の出から権力と財力のトップに駆け上った秀吉の、本能的なコンプレックスの裏返しの性格がみえるとおもうんだ。

まとめ

ここまで豊臣秀吉の性格をエピソードなどから探ってきた。いろんな見方や感じ方はあるとおもうんだ。

出世の途中でみせた野心あふれる攻撃的な性格、天下統一を果たしトップに立ってからの守りの性格。

そのどちらにもある秀吉の知性の内に、勇気と臆病の入り混じった性格があるような気がします。

秀吉の性格の変化は、わたしたちだれもが持っている本能的な性格、まるで人生の縮図をみているようなきがするんだけど、いかがだったでしょうか。