織田信長について 子供にもわかりやすく 話しをするよ!

織田信長(おだ・のぶなが)ってなまえは学校の歴史でならって知ってるとおもうんだ。

でも学校の歴史ってあんまり面白くないよね。どうしてってテストがあるからさ、テストのためにおぼえなきゃなんないからさ。

良い点数をとればほめられるけど、悪い点数だとおこられちゃう。

ここではテストがないから安心していいんだよ。

ちょっと面白いかもって思うとこだけ、あたまの中にちょっとだけレポート(セーブ)すればいいんだ。

それじゃ織田信長(おだ・のぶなが)について話しをはじめるよ。

戦国時代(せんごくじだい)

諏訪原寛幸

いまからざっと500年まえの日本は、全国をまとめるトップの将軍(しょうぐん)がいなくんっちゃったんだ。

そこでいまがチャンスと各地の大名や武将(ぶしょう)がトップの座を取ってやろうとそれぞれが戦いをはじめた、それを戦国時代っていうんだ。

つまり日本中のあちこちで戦争をしている、グチャグチャでハチャメチャな時代。

そんななかで尾張の国(いまの愛知県)から、まわりの敵をつぎつぎとたおして、あともう一歩で天下統一(トップの座)ってとこで、

家臣(かしん=じぶんの家来)の明智光秀(あけちみつひで)のうらぎりで命を落としたのが織田信長なんだ。

その戦いのつよさ、あっといわせる作戦、破天荒(はてんこう=今までだれもしなかったような事をする)な生き方やエピソードで、

ドラマになったり多くのひとを感動させる戦国時代の英雄(えいゆう)なんだよ。

信長(のぶなが)の子どもの時代

信長がおさないころ、庭であそんでいると小ちゃなヘビがでてきたんだ。

そこでそのヘビを捕まえて、そばにいた家来に「これって勇気あること?」って聞いたんだ。

家来が「小ちゃなヘビなんだから怖がることはないよ」ってこたえると、

ムカッと来た信長は「ヘビの毒は大小できまるんじゃない」〜たしかに小さくても毒をもったヘビはたくさんいる。

つづけて「小さいから怖がらないなら、もし主君が子どもなら、おまえたちはあなどる(=軽くみる)のか!」って言い返したんだ。

これは信長が子どもで小さいから軽くみるのかって怒ったようにもとれるけど、そうじゃないんだ。

この戦乱のよを生きてゆくには、敵の大小で力をはかっちゃダメ。敵の国が小さいとか、兵士の数が少ないからといってバカにしちゃいけない。

小さくても毒を持っていることがあるから気をつけなきゃダメなんだっていってるんだ。

やっぱり信長は子どものころから大物になる素質があったんだね。

若いころの信長

若いころの信長は、きものの袖(そで)を切ったユニークな服装で、仲間とつるんで、山や野を走りまわったり、

町の中をうろついていたずらしたり、とにかく君主のあととりには思えないメチャクチャな行動をしてたんだ。

そのため尾張の大うつけ(=悪ガキ・ガキ大将)ってよばれてバカにされていたんだ。

それは敵を油断させるためっていう人もいたけど、それだけじゃない信長なりのアイディアや考えがあったように思うんだ。

大うつけ(=悪ガキ)は準備運動

きものの袖って手首のところが広くてヒラヒラしてる、作業をするときにじゃまになるから腕まくりをする、

だったら最初っから無くしちまえばいいやってのが信長のアイデア。

忍者の服装を想像してごらん、そではみじかく腕のところにはフィットした下着をつけているよね。

すばやく動かなければならない忍者、信長のファッションも動きやすさのためなんだ。

行動性のアイデアだけど、ふつうじゃ思いつかないユニークな服装が、変わり者のイメージをつけちゃったんだ。

また「仲間とつるむ」ってこともワルがきのグループ・ガキ大将におもわれたんだ。

でも信長には戦いはひとりじゃできない、信頼できる部下や仲間がひつようだってことが分かっていたんだ。

また大将は先頭にたって、ともに戦わなきゃ仲間がついてこないこともしっていたんだ。

つまり「大うつけ(悪ガキ)」は大将になるための準備運動だったてわけさ。

信長の戦略・奇策

家督(=父のあとをついで君主になること)をついだ信長は、はやばやと尾張(愛知県)全部を治めるまでにのしあがったんだ。

まわりの敵国からは生意気なやつって思われたんだろうね。

そしてついに、となりの国の強敵、今川軍が調子にのってる信長を今のうちにつぶさなきゃって攻めてきたんだ。

これは信長にとって最大のピンチ、だって今川義元(いまがわよしもと)ひきいる軍勢は2万5千。

信長軍はどんなに兵をかきあつめてもたったの5千しかいない、どうみたって不利。そこで信長は考えたすえに

城を守って戦ったら絶対まける、外にでてむかえうつしか勝機はないって戦ったのが、

歴史の教科書にも出てくる有名な桶狭間(おけはざま)の戦いなんだ。

桶狭間(おけはざま)の戦いの勝因

それじゃあ最大のピンチの桶狭間の戦いにどうやって勝ったんだろう。

じっと情報をあつめ頃合いをうかがっていた信長は、

今川軍が5千の今川義元(総大将)の本隊と2万の兵が、別行動しているのを知ってシメタとおもったんだ。

そして本隊の居場所がわかったとき、これぞ絶好のチャンスと夜中にはねおきて、

いそいで兵をあつめ、たった2千の軍勢で今川義元の本隊5千に奇襲をかけたんだ。

このとき幸運にも大雨が降っていたんだ。まさか大雨の中を進軍するなんて誰もかんがえない。

これは今川にとってもおなじ、まさかこんな大雨の中を攻めてくるなんておもわなかったんだね。

だから大あわての今川軍は戦うどころじゃなくサンザンバラバラ。ついに今川義元(総大将)の首をはねて勝利したんだ。

信長のチャンスをのがさない、直感とすばやい行動と、天(雨)を味方につける強運はまさに天才だね。

もうひとつ「農民おもてなし作戦」ってのがあって、

信長のスパイが農民に変装して、今川の2万の別働隊に酒や餅(もち)をふるまって足止めしたってはなしがあるけど、どうもあやしいかなこれ。

情報作戦

じつは信長は少ない軍勢で大軍をたおすために情報をうまくつかっていたんだ。

現代ではサイバー攻撃とか、メディアやネットでフェイクニュースを流して相手を混乱させるって作戦は使われるんだけど、戦国時代にはそんなものないよね。

そこで信長は100人の兵で3千人を皆殺しにしたとか、2千の兵で3万4万の大軍をけちらしたとか、

戦果をすこし大げさにもったファイクニュース手紙にして、

とくに情報を敵にもらしやすい大名や武将にばらまいて、戦うまえに敵をびびらせたんだ。

びびった兵士ほどよわいものはないからね。この時代に心理戦、情報戦が勝ち負けにおおきくエイキョウするってかんがえたのはスゴイね。

こうしてどんどん勝ち進んで、天下のトップにあと一歩までになった戦国の奇才・名将が織田信長なんだ。

まとめ〜最期にひとこと

このほかにも信長は強いだけじゃなく女に優しい人だったとか、

奇想天外(きそうてんがい)なエピソードもたくさんあるけど、それはつぎの機会にまた。

ところでなんか面白いとこはあったかな?歴史ってちょっと深くほってみると、意外なことっていっぱいあるんだ。

でもその史実(=歴史の真実)も見かたによって、まるで真ぎゃくにもなることがあるんだよ。

だって何百年もまえの、ほんとのことをいったい誰がしっているっていうの?だから歴史に正解はないんだよ。

歴史のテストに答えはほんとはないんだ。君たち自身の歴史だけがほんとうの答えなんだよ!

織田信長の有名な名言やエピソード〜 その意味をわかりやすく解説するよ!

戦国の異端児(いたんじ)、天下統一まであともう一歩のところで命を落とした名将・織田信長。

有名な名言やエピソードのなかにある、戦国の世から、現代の世への、心にひびくメッセージや奥深い意味を独断と偏見をまじえて解説してみようとおもうんだ。

生い立ちのエピソード

当時の武将の子は産んだ母親ではなく、乳母や養育係が育てるのが通例だった。

現代でも天皇家は最近まで養育係が子育てをしてたんだよ。

そのしきたりを初めて破ったのはつい最近のこと、平成天皇の皇后、美智子さまなんだよ。ちょっとはなしがそれちゃったね。

織田信長は尾張の国(いまの愛知県)の主、織田信秀(おだのぶひで)の嫡男(かとくを継ぐ長男)として生まれ、幼名を吉法師(きっぽうし)っていうんだ。

その吉法師(きっぽうし)も生まれるとすぐご多分にもれず乳母のもとで養育されることになった。

ところがものすごく疳(かん)の強い子で乳母の乳首をかみ破っちゃうんだって。それで何人もの乳母が交替したと伝わっているんだ。

生まれながらにして気性が激しかったのか、それとも産んだ母親とちがう乳を与えられたことへの反発なのかもしれないね。

そのくらい乳児のころから感がするどかったのかも。

ところが池田恒利(つねとし)の妻(養徳院ようとくいん)が乳母になったとたん、不思議なことにその乳首だけはかみ破らなかったっていうんだ。

きっと産みの母と似たやすらぎを感じ取ったのかも知れないね。

「主君が子供ならあなどるのか?

幼少のころ庭先で遊んでいると小さなへびがでてきた。

吉法師(信長)がこれをつかんで近くにいた家来のものに「このようなことを勇というのか?」ときくと、

「小蛇など恐れるに足らぬものです」と家来がこたえたんだ。

すると吉法師は「蛇の毒は大小によらぬ。小さいからと恐れぬのなら、もし主が幼少なら、うぬらはその主をあなどるのか?」と言い返したんだ。

これは吉法師(信長)は「小さいへびを手でつかまえるようなことを勇気のあることっていうの?」ってきいたんだね。

それにたいして家来が「小さなへびなんかは恐れる代物じゃありません」ってこたえたんだ。

これにムカッと来た吉法師は「へびの毒はその大小ではわからない、小さいからといってバカにするのは、主君が子どもだからとバカにするのと同じじゃないか!」っていいかえしたんだ。

つまり人の価値は幼いとか年を重ねたとかで計れるものじゃない、幼いからといって軽視すると、大きなものを見損なうよっていっているんだ。

この吉法師のエピソードは将来の大物の片鱗(へんりん)を感じさせる名言だね。

武将信長の名言

父・信秀の死後、織田の家督をついだ信長は、その才能と斬新な戦略でつぎつぎと強敵をなぎ倒していった。

そんな戦乱の中の信長のエピソードや名言をいくつかあげてみよう。

「臆病者の目には、敵は常に大軍に見える」

臆病者の目とは、おびえた気持ちで敵を見れば、少人数の敵でも大軍に見えてしまう。

臆病者の目になった時点で、すでに戦の勝負は決まってしまうって言ってるんだ。

これはおびえずに勇気をもって目のまえの敵をよ〜く見ろ、そうすれば敵は大軍じゃないことがわかるから、

と戦う兵士たちの士気を高めようとした言葉。

また信長はこの心理を逆手に取って、

信長軍は前の戦いで2万3万(実際には5千でも)の敵を虐殺したっていう誇張したうわさを先きに流し、

敵を臆病者の目にしてしまう戦略で勝ち抜いたんだ。

この名言は現在の社会でも同じことがいえるんだ。

たとえばアスリートがよく「敵は己の中にある」っていうよね。この己の中の敵とは臆病者の目とおなじ、プレッシャーにまけてはダメだってことだよね。

会社の仕事でも同じ、しっぱいをおそれる臆病者の目になっちゃダメ、目のまえの仕事が大軍に見えてしまうってことなんだ。

「人城を頼らば城人を捨せん」

このことばをそのまま解釈すれば「人が城を頼ったとき、落城する」といった意味。

さらにかみくだけば、城が人を守るのではなく、人が城を守る、

つまり城をまもろうとして戦うとき、この城は2重3重に堀や、要塞を築いてあるからそうカンタンには落ちない。などと城の堅固さに頼ったらまけちゃうってこと。

まもって勝利するのは、そのなかで戦う人の力次第だっていってるんだ。

いまの社会におきかえてみるよ。

大企業といわれる会社は、創業者と社員とがいっしょうけんめい努力してすぐれた商品や企画を開発してきたから大企業という城を築けたんだ。

ところが大企業という名前にあぐらをかいて開発や企業努力をおこたればつぶれてしまう。

つまり大企業という城にたよって、働く人の努力が薄れてしまえば守れずに落城してしまうってことなんだ。

またよくあるパターンだけど、自分の実績を大企業という城にまもられて出来たことなのに、自分の力と勘違いしている人がいる。

そんなひとが自分の力を試そうと会社を辞め独立したけど、ちっとも成果が上がらずポシャってしまうパターン。

これもじぶんでは気づかずに城を勘違いして頼って落城してしまったんだね。

主君信長の名言

天下をとろうと野望をもち戦い続ける織田信長。

ひとのうえにたつ者の持つべき資質やその信念を語った名言があるんだ。そのいくつかをこれから紹介しようとおもう。

「人を用ふるの者は、能否を択ぶべし、何ぞ新故を論ぜん」

まずは分けて訳してみよう。「人を用ふるの者は」とは単純に訳せば「うえにたって人を使う者は」って意味だけど、

もっとその言葉をふかく解釈してみると、人を使ってなにかをさせようとするとき、人選をして命令をだす者が心得ることはってこと。

「能否を択ぶべし、何ぞ新故を論ぜん」とは、能力があるか無いかで人選をしなさい、長くつとめているかどうかで選ぶのは論外だっていっているんだ。

現代の社会でもありがちなことだね。先輩だから、年長だから、会社に長くつとめているから、そんな理由で人選すれば失敗する。

仕事やプロジェクトの本来の目的は成果を出すこと、つまりその仕事に適した人材を選べってことなんだ。

またその人物を正しく評価する目を持ちなさいっていっているんだよ。

「生まれながらに才能ある者はそれに自惚れ、怠惰する」

これは訳すまでもなく分かるとおもうんだ。

生まれつきの才能がある人はそれにうぬぼれて、努力することをおこったてしまう。

生まれつきの才能がない人は、何とか技術を身につけようと日々努力する。さいごに勝つのは後者だっていってるんだね。

近年よく言われることに、天才や一流アスリートと呼ばれる人は、生まれつき才能があったわけじゃない。

並の人以上に努力に努力を重ねた結果で、むしろ努力する才能があるものが天才や一流といわれるひとたちなんだってね。

戦国のその時代に、この真理をさとった信長はやっぱスゴイね。

4.信長の名言(歌と舞)〜人生観

日々戦いにあけくれ、いつも死ととなりあわせにいた戦国の武将。

そんな信長が人間としての心をあらわすことば、人生観を、好んだ歌や舞のなかにさぐってみよう。

「死のうは一定。しのび草には何をしよぞ。一定語りおこすよの。」

これは信長の好きな小唄として有名なんだ。

その意味は「死はだれにでも訪れる。死後に(自分が)語り継がれる為には何をしておこうか。きっとそれを頼りに人々は語り継いでくれるだろう。」

では信長はなぜこの小唄がすきだったんだろう。

自分が死んだあとに語り継がれてほしかったから?いやそうじゃないとおもうんだ。

だって戦に出ていつ殺されるかわからないんだ、後世に語りつがれるような功績を残せるかどうかなんて分かりゃしないんだよ。

きっとそれは唄の出だしの「死のうは一定」、その一句に信長をひきつけた大半があるような気がするんだ。

ひとは誰でもが死ぬ、でもじぶんの死は明日かも知れない、いつ殺されても不思議じゃないじぶんの命。

だからこそ今しかない自分のいのち、死の覚悟と人生のはかなさをこの出だしの一句に感じて、信長のこころに響くんだ

「人間五十年 化天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか。」

この舞は、幸若舞(こうわかまい)という能に似た演目のひとつ「敦盛(あつもり)」の一節。

「人間五十年 化天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり。」の意味は、

人の世の50年の生涯ってのは、天の世界の時間に比べりゃほんの1日。まったくはかない夢みたいなものだよ。

「一度生を得て滅せぬ者のあるべきか。」は、いちどこの世に生まれてきたもので死なないものはないんだって意味。

ちょっと「下天」について説明すると、天界の一番したの界で1日が人間界の50年にあたって、その界の住人の定命は8000才なんだって。

それから比べれば人間の一生なんてほんの一瞬だっていってるんだ。

現代の考古学で地球の年齢約46億年にくらべれば、人類の歴史はほんの2秒くらいって言うのとおんなじだね。

でも戦国時代にそんな考えがあったなんておどろき。この敦盛(あつもり)」の舞を信長は好んで舞ったんだ。

また桶狭間の戦い(今川勢2万5千に対し織田軍3千で戦った必死の戦い)の出撃の直前にも舞ったという話が有名。

死を覚悟して戦いにのぞむ信長、死の恐怖をおさえながら、なお戦わなきゃならない想像をぜっするする緊張。

そんななかで舞う「敦盛(あつもり)」5.h2.信長最後の名言「是非に

が信長になにをあたえたんでしょう?なにを得ようとして舞ったんだろう?

及ばず」信長最後の名言

「是非に及ばず」

「是非に及ばず」を直訳すれば、良いとか悪いとか言うんじゃない、言ったてしょうがない、やむを得ないことなんだって意味。

これは本能寺の変で、信長がだれの謀反(むほん)なのかをきいたとき、森蘭丸が「明智の軍勢と見受けます」と答を聞いたときに放った一言なんだ。

自分はもうこれで最後(死ぬ)だとおもったときのことばなんだよ。

家臣にうらぎられたんだよ、ふつうこんなでいられないだろ。あのやろうよくもやりやがってとか、天下統一まであと一歩なんだよ。

じぶんはこれで死んじゃうんだよ、くやしいのが当たりまえだよね。

でもなんで「良いとか悪いとか言うんじゃない、しかたのないこと」なんて平常心で言えるんだろう。

これは何時どんなときも、つねに死を覚悟していた信長・人間そのものの言葉だとおもうんだ。

まとめ

波乱にとんだ人生をあゆんできた織田信長。

気まぐれで破天荒、ユニークで斬新な戦術、残忍と優しさの同居する武将、強靭な戦国の名将など、さまざまに伝えられている信長。

でもぼくには戦乱の天才武将というより、ブッタやイエスキリストのように、悟りに最も近づいた武将だとおもうんだ。

これまではなした名言はほんの一部でまだまだあるよ。もし信長に興味をもったら、もっと調べてみると面白いかもね。ではおしまい

明智光秀と織田信長は同一人物?歴史の落とし穴をこっそり教えるよ

明智光秀と織田信長は同一人物?どうしてそんな疑問がでるんだろう。

学校の歴史で織田信長は本能寺の変で死んでしまい、謀反(むほん)を起こした明智光秀は豊臣秀吉に主君のかたきとして殺されたって教えられたよ。

それが同一人物なんてのは、コミックやドラマの中だけの話しじゃないか。

でも本能寺の変の内容や明智光秀の素性について、じつはナゾがいっぱい、分からないことだらけ。ここらあたりに歴史の落とし穴がゴロゴロしてるんだ。

歴史のヒーローや伝説がうまれる背景

歴史のなかで戦いのすえ勝ち残ったものがヒーローになるのは定番だ。

ヒーローや伝説が多くうまれるのは戦いの多い時代、つまり政治や権力が混乱した時代、日本では戦国時代や幕末(明治維新前後)なんだ。

歴史ドラマや物語の主人公をみてごらん、ほとんどが戦国時代や幕末に活躍した人物だよ。

また混乱した時代だからこそ史実を残す資料が戦火で焼けてなくなったり、

また敵をダマすためのファイク(デマ)が飛び交ったりして、歴史に穴がボコボコあいちゃうんだ。

その穴をうめるため、つじつまをあわすために伝説(真実かどうか確かめようがない)やドラマがたくさん生まれるんだよ。

歴史がつくった織田信長

いま歴史で語られている織田信長は、現存している手紙、日記、書状や「信長公記(しんちょうこうき)」という書物などを、

歴史家が分析して推測した結果。つまり「ほぼ真実」だろうというくらいのレベルなんだ。

「信長公記」は元織田の家臣が後世に残そうと書いた伝記。身内のものが信長を悪く書くはずがない、ヒーローでなきゃならないはず。

たった2千の軍勢で2万5千の今川軍を倒したという伝説も、強い信長を世にしらしめ敵をおびえさせる心理作戦(ファイクニュース)だっていう説もあるんだ。

こうやって歴史のヒーローがつくられていくんだね。ほんとうの信長はだれも知らないってのが真実なんだ。

「信長協奏曲」

これはテレビドラマ化されて知っている人もおおい、原作は石井あゆみのコミック(マンガ)でフィクション。

ストーリーは平成の高校生サブローが戦国時代にタイムスリップしてしまう。

そこでであったのが、じぶんとソックリなんだけど病弱な織田信長。

頭は良いけどからだが弱い信長はサブローに織田信長として生きていってくれと頼むんだ。

信長となったサブローは時代とはかみあわないけど、現代っ子のセンスで痛快に戦乱の世を生き抜いていく笑いの青春ドラマ。

織田家をでた本物の信長は明智家の養子となり、そのうち明智光秀と名のり、織田家の家臣となってサブロー(信長)をたすけ力になるという物語なんだね。

ここでサブロー=織田信長、本物の織田信長=明智光秀。明智光秀と織田信長は同一人物という図式ができあがったんだ。

織田信長は死んでいない?

あまりにも有名な「本能寺の変」なんだけど、この事件は戦国史において最も謎の多い事件なんだ。

なぜ明智光秀がクーデターを起こしたのか未だにはっきりした定説がないんだって。

徳川家康と共謀したとか、将軍の座を追われた足利義昭が恨みを晴らすためにやったとか、とにかくいろんな説がとびかってるんだ。

でも最大のナゾは自害したとされる信長の死骸が発見されていないことなんだ。

本能寺には秘密の抜け穴があって、信長はそこから抜けだし生き延びたという。

抜け穴を作ったのは秀吉で、遺体をさがすため必死で捜索したというはなしもあるんだ。

明智光秀もじつは死んでいない?

明智光秀は主君のかたきとして豊臣秀吉に殺されたことに歴史ではなっている。でも信長とおなじでその遺体は確認されていないんだ。

遺体の顔がグシャグシャで本人かどうか分からなかった、そこで実際に死んだのは影武者のような別人。

光秀はいきのびて南光坊天海(なんこうぼう・てんかい)という僧侶となったという俗説がでてきたんだ。

これには明智光秀も天海もその前半生がナゾに包まれて、たしかな史実が残っていないことによって生まれたドラマ、明智光秀=天海・同一人物説なんだ。

南光坊天海(なんこうぼう・てんかい)

天海が歴史に登場するのは、天下分け目といわれる「関ヶ原の戦い」のころから。

天台宗の坊さんということだけは分かっているけど、その生まれや素性はナゾ。

なぜか徳川家康とはうまがあったらしく、家康が天下を取ったあと徳川家に家康・秀忠・家光と三代にわたって、政治的にも深くたずさわり仕えたというんだ。

当時の平均寿命が30代という時代に、108才まで異例の長生きをしたというミステリアスな人物なんだよ。

ここだけの(初公開)の話し〜「天海協奏曲」

徳川家康がまだ織田信長の家臣だったころの話し。

家康の屋敷のうらやまに天からUFOが大音響とともに墜落したんだ。

それを見に行った家康のまえに、こわれた宇宙船のなかから人間ソックリの若者エイリアン(宇宙人)がケガをして這い出てきたんだ。

家康はエイリアンを屋敷につれかえり、傷の手当をしたんだ。

そしてケガも治ったエイリアンが

「わたしは宇宙船もこわれ星にかえることができない。人間として生きる覚悟はできているので、助けてくれたお礼になにかさせてくれ」というんだ。

なんでエイリアンが日本語しゃべれるの?まあ細かいことは無視してきいてくれ!

話しをしているうちにエイリアンの頭脳の優秀さを理解し、

天下取りに野望をもっていた家康は、こいつはきっと使えるとおもい「それでは明智光秀と名のり、おれの手下になって力をかしてくれ。」といって信長の家臣にしちゃったんだ。

もうひとつの「本能寺の変」

信長がもう一歩で天下統一ってとこまできたのをみて、ここがチャンスと家康の野望のためには邪魔になった信長をエイリアン光秀に「敵は本能寺にあり!」と討たせたんだ。

もちろん豊臣秀吉が敵討ちにくるのを予想した家康はすばやくエイリアン光秀を南光坊天海と坊主に改名させ逃がし、

影武者に爆薬をもたせ、さいごとおもったらその爆薬で自害しろと命じて明智家に送り込んだんだ。

秀吉が討ったと思った光秀は、顔かたちが爆薬でふっとんだ影武者だったんだ。

そのご天下人となった秀吉のもとにスパイとしてエイリアン天海をもぐり込ませ、

豊臣家を崩壊させ、ついに関ヶ原の戦いに勝利して徳川家康が天下人となり野望をはたした。

天海は3代にわたり徳川家につかえ、助けてもらったお礼の約束をはたしたってわけさ。

エイリアン=明智光秀=天海、みんな同一人物っていうここだけの「天海協奏曲」。

108才まで長生きしたのも、天海というなまえの由来も、エイリアンならなんとなくうなずけるでしょ。

まとめ

ここまで聞いてくると、学校でならった歴史って一体なんだったのって気にもなるんだけど・・・。

とくに戦国時代や幕末のような激動の時代は歴史の落とし穴だらけだってこと。でも歴史はその穴を埋めてつながらないといけないんだ。

だからいろんな説が飛び出てくるんだよ。

いま学校で教えている歴史は、たくさんある説の中で一番信憑性(しんぴょうせい)のあるものをチョイスしているんだ。

こんご新しい史料が発見され、新しい説がでてきて歴史が変る可能性はおおいにあるってことなんだ

豊臣秀吉はなぜ出世できたの?その理由を初学者でも分かるように解説するよ!

豊臣秀吉は農民(足軽)という低い身分から、天下人(てんかびと)という日本最高の地位までのぼりつめた、おそらく歴史上もっとも出世した人物だよね。

まるでアメリカンドリームみたいな夢物語。

ではどうしてそんな出世ができたのか、伝えられているエピソード・歩みや生涯などから解きあかしてみたいとおもうんだ。

出世の足取り

秀吉のあだ名は幼いころは小ザル、成長するにつれサル→ハリネズミって変っていくんだ。

これはその顔だちや風貌、すばしこい行動なんかで付けられたとおもう。

それと同じように名前も、

名無しのサル→木下藤吉郎(きのした・とうきちろう)→羽柴(はしば)藤吉郎秀吉→豊臣秀吉(とよとみ・ひでよし)と変っていく。

これは功績がみとめられ出世するたびに信長などからなまえをもらったんだ。

ふつう身分の低いものに姓はなく名だけ、よく無名の人とか名無しのゴンベエなんていうだろ。

姓があるってことはいっぱしに認められたってこと、豊臣家のように○○家を名のれるのはそれなりの地位や城を持つ大名になったなった証拠なんだ。

そんな秀吉の出世の足取りをこれから探ってみよう。

ナゾの生い立ち

秀吉は今からざっと500年まえ戦国時代に、尾張の国(いまの愛知県)の中村いうところの農民の家にうまれたんだ。

父は弥右衛門(やえもん)、母は「なか」(後の大政所)っていうんだけど、うまれた年や誕生日がいつなのかよくわからないんだ。

え〜っておもうけど、よく考えりゃあたりまえのこと。

大名や武将の子どもならわかるけど、無名の農民の子どもの出生をだれが記録に残すっていうの。

秀吉が小さい頃に父親は病気で死んでしまい、母はべつな人と再婚、しばらくはそこで暮らしてたけど、サムライにになりたくて家を出た。

もちろんなんのコネもないのですぐ武家に奉公できるわけがないので、行商のようなことをしてブラブラしてたらしいんだ。

秀吉の幼少についてこれ以外にはほとんど何も記録がなくナゾがおおい。

そもそもだれの子かも不明という説もあるくらいなんだ。貧乏だったむかしのことをあまり言いたくなかったので記録がないのかもね

最初の武家奉公

若くして尾張の国を治めていた天才武将・織田信長(おだ・のぶなが)につかえることで出世したのはよく知られているよね。

でもじつはその前に今川義元の配下の松下之綱(まつした ゆきつな)に仕えていたんだ。

農民の子が、どうやってもぐり込めたのかわからない、持ち前のちゃっかりだったかもね。

その頃には藤吉郎(とうきちろう)と名のっていて、この松下家で文字、学問、武芸、兵法などを学んだって言われている。

正式な家来っていうより、素質をみこまれた勉強性みたいなものだったようだ。

そこでのエピソードに、城の蔵(くら)からよく物がなくなるので、ためしに藤吉郎に蔵の番をさせてみたんだ。

そこで藤吉郎はイヌといっしょに番にたったんだ、それから物がなくなるのが減ったってはなしがあるんだ。

そのころから藤吉郎はすぐれた機知(ウィット)をもってたんだね。でもそれでまわりから妬(ねた)まれちゃう。

気にした松下氏はおしみながらも、藤吉郎にあるていどの金をやって追放したといわれているんだ。

織田信長との出会い

これもまたどうやって織田信長の家らいになったのかは分からない。

でも秀吉が信長に仕えたことこそ、出世街道をかけあがっていけた最大の理由なんだ。

信長はいままでのしきたりや偏見にこだわらない、

ひとを登用(仕事を任命する)するのに年功や身分じゃなく能力で選ぶ、またそれを見抜く力を持った武将だったんだ。

農民の出だろうとかんけいない、はなから藤吉郎のスキルに目をつけていたんだろうね。

それで「サル」って呼びながら、可愛がって(能力をためしながら)仕事をやらせたんだとおもうんだ。

あったかい下駄(げた)

ある寒い夜に信長が下駄はこうとしたら、なぜかほんのりとあったかいんだ。

そこで信長は「おいサル、てめえ下駄にすわっていたな!」っていうと、

「いいえ寒いので懐(ふところ)で下駄を温めておりました」と藤吉郎がこたえたんだ。

それじゃ懐(ふところ)を開けてみろといって見ると、藤吉郎の腹に下駄のあとがくっきりとついていたっていうんだ。

それいらい信長は藤吉郎に目をかけたってエピソードは有名だね。

ほんとの話しかどうかはチョット疑問だけど、そのくらい秀吉は機知(ウィット)に富んでいたってこと。

ご機嫌とりがうまかったのかも知れないけど、とにかく信長をうならせたことにはちがいないよ。

墨俣(すのまた)の一夜城

これも有名なエピソード。一夜ってのは大げさだけど、そのくらいビックリするスピードで築城を完成させたってことなんだ。

信長は美濃(いまの岐阜県)を落とすための拠点として、墨俣(いまの大垣市)に城をつくりたかったんだ。

2度ほど家臣に命じてトライさせたけどぜんぶ失敗。そこで木下藤吉郎が「7日のうちに完成させます」と言上したんで、

それじゃやってみろってんで藤吉郎はまかされ、みごと短期間(7日ってのは後からもられた話し)でやってのけたんだ。

それには蜂須賀小六(はちすかころく)という野武士「川並衆」のとうりょう(頭)の協力が大きいんだ。

この「川並衆」は土木工事・利水工事につよく、舟を操ることや山岳の戦いにもつよい、

どの大名にも属しない独立した約2000人の野武士の集団。

そのころはまだ無名だった木下藤吉郎が、どうやって蜂須賀小六の「川並衆」の協力をてにいれたかはナゾなんだけど、

2000人の兵力っていえば数万石の大名とおなじくらいの戦力なんだよ。

これを味方につけた木下藤吉郎は、木曽川の川を利用して資材をはこぶアイデア(陸上をはこぶ何倍ものスピード)で、

ふつう2〜3年かかる築城をあっというまの短期間でやっちゃたんだ。その功績が認められ秀吉はどんどん出世していくことになるんだ。

本能寺の変

こうやって機知(ウィット)とアイデアで次々と戦果や功績を上げ出世した秀吉は、

信長の天下統一最後の宿敵、中国地方の毛利(もうり)氏をたおす総大将にばってきされ、羽柴(はしば)秀吉と名をもらって姫路城に本拠をおいて戦っていたんだ。

そしてあともう一歩てとこで信長の出馬をまっていたところ、

あの有名な本能寺の変、明智光秀(あけちみつひで)の謀反(むほん)で主君信長が死んでしまったんだ。

それからの秀吉の早さはすさまじい。

対決していた毛利勢をまたたくまに講和にまでこぎつけ、いそいで兵を揃えて高松城(岡山)から京都までひきかえし、

本能寺の変からわずか11日、山崎の戦いで主君の仇(かたき)明智光秀をうちとったんだ。

毛利軍との戦いをおわらせ兵を整え、岡山から京都まで移動して明智光秀をうつまで11日。

いまでこそ新幹線とか飛行機があるけど、当時の移動手段は走るか馬しかないんだよ。

さらに重たい鎧(よろい)や刀を持って走ること想像してごらん、すさまじい強行軍だったとおもうよ。

天下人(てんかびと)豊臣秀吉

こうして信長の意志をうけついで天下を統一した秀吉は、朝廷から豊臣の姓をいただき、

武士のトップの地位・関白(かんぱく)太政大臣(だじょうだいじん)となり、名実ともに天下人(てんかびと)豊臣秀吉にまで出世街道をのぼりつめたんだ。

農民のうまれから、仕官しておよそ30年で足軽から関白まで出世した。

身分の何もないところから最高のトップまでのし上がった人は、歴史上この豊臣秀吉をおいて、ほかにいないんじゃないかな。

まとめ

豊臣秀吉が天下人まで出世できた理由は、すぐれた機知とかスバシコイ能力だけでできるものじゃないとおもうんだ。

奇才といわれた名将・織田信長にひろわれたこと、家臣に戦略の名将・徳川家康がいたこと、野武士の頭・蜂須賀小六とであったこと、

そんなもろもろの運命が天に味方したこと。

よく天才は運をも引き寄せる才能があるっていわれるように、秀吉も運を逃がさない、そんな力があったような気がするん

織田信長が優しいひとって本当?性格・人柄・エピソードを 簡単に説明するよ

天下統一まであともう少しってとこで明智光秀(あけちみつひで)の謀反により命をおとした織田信長。

幼少の頃から尾張(いまの愛知県)の大うつけと呼ばれた乱暴もの、破天荒(はてんこう)で気まぐれ。

それでもつぎつぎと強敵をなぎ倒していった強い戦国武将として有名だよね。

そんな残虐(ざんぎゃく)な戦をかさねた信長が、じつは優しい性格だって?

それではこれから、波瀾万丈(はらんばんじょう)のエピソードをとおして織田信長のひとがら・人物像をあらい出してみようとおもうんだ。

信長の生い立ち

尾張の国(いまの愛知県)の主、織田信秀(おだのぶひで)の嫡男(かとくを継ぐ長男)として生まれた信長は幼名を吉法師(きっぽうし)っていうんだ。

吉法師(きっぽうし)は生まれるとすぐ乳母に育てられることになるんだ。

ところがものすごく疳(かん)の強い子で乳母の乳首をかみ破っちゃうんだって。

それで何人もの乳母が交替したと伝わっているんだ。

疳(かん)が強いっていうのは、夜泣きがひどっかたり、すぐにかんしゃくを起こしたり、いちど機嫌が悪くなるとなかなか直らないんだって。

信長は赤ん坊のときから気性がはげしかったんだね。

だけど池田恒利(つねとし)の妻(養徳院ようとくいん)が乳母になったとたん、

不思議なことにその乳首だけはかみ破らなかったっていうんだ。きっとこのひとの乳だけは、信長には心地よく不思議なみりょくがあったのかも。

養徳院はのちに「大御乳(おおちち)さま」と呼ばれ尊敬されたんだって。

このエピソードからも好き嫌いのはっきりしている、乱暴と優しさが同居する性格の一片がみえるような気がするんだ。

尾張の大うつけ

幼少から青年時にかけては奇妙な行動が多かった。

袖を切ったおかしな服装で、山や野をあちこちと走りまわったり、仲間とつるんで馴れ馴れしい態度で町を練り歩いたり。

それでまわりからは尾張の大うつけ(常識にはずれた人物)と呼ばれていたんだ。

そうしながらも弓、鉄砲、兵法はそのころからきちんと先生について学んでいるんだ。

袖を切った服装も行動性をかんがえた工夫、また独自性をアピールするファッション感覚かも。

なかまと親しくつるむのも、将来じぶんの手足となる親衛隊をつくる手法かも。

町を練り歩くのも庶民の生活を知らなければ良い国はつくれない、民をおもう優しさの行動かも。

大うつけは演技だったっていう説もあるけど、天才によくある、あたまが切れたがための奇行。

それが変わりものに見え、うつけものって言われたんじゃないのかな

家督をついだ信長

父・信秀(のぶひで)の死後、家督をついで信長は織田家の城主となったんだ。

それでも生来の気性の激しさは変らず、また奇想天外な手法であっというまに城を築いたり、

強気の戦いでつぎつぎと領土をひろげ、まわりの強国をたおし恐れられていたんだ。そんななかにもいろんなエピソードがあるんだ。

墨俣(すのまた)一夜城

墨俣(いまの岐阜県大垣市)は美濃を落とすための要所。信長は2度ほど家臣に命じて城をたてようとしたが失敗していたんだ。

そこで木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が「7日のうちに完成させます」と言上して、信長は彼にその仕事をまかせたんだ。

普通は2〜3年もかかる築城をあっというまに藤吉郎は完成させてしまったのが、「墨俣一夜城」といわれる有名な逸話なんだ。

一夜でできたわけじゃないけど、そのくらい驚きの早さだったってことだよね。

川の上流から流した材木を組み立てるという木下藤吉郎のアイデアや実行力はすごい。

でももっとすごいのは信長の人の才能を見ぬく力と、偏見にとらわれない心のひろさなんだ。

農家の出だった藤吉郎をじぶんの家臣としてそだて、まだ身分が低かった藤吉郎(サル)に築城という重責をまかせた信長の眼力は、やっぱりスゴイのひとこと。

信長の名言に「人を用ふるの者は、能否を択ぶべし、何ぞ新故を論ぜん。」ってのがある。

これはひとを用いる(採用する)ときは、才能スキルがあるか無いかで選ぶべきで、

長くつとめたとか年上だとか、役が高いとかで選ぶのは論外のバカ、愚の骨頂だっていっているんだ。

まさに藤吉郎(サル)を登用したのはこの信念、ふところの大きさ、家臣をおもう優しさだとおもうね。

山中の猿

美濃と近江の国ざかい近く、いまの関ヶ原の山中村に「山中の猿」と呼ばれている体に障害のある男が街道沿いで乞食をして暮らしていたんだ。

このころ岐阜と京都をよく行き来していた信長は、

障害があるため普通の生活を送ることができないこの男をなんどか見かけて気にかけていたようなんだ。

そしてあるとき山中村の人々を呼び集め木綿20反を「山中の猿」に与え、「これを金にかえて、この者に小屋を建ててやれ」って命じたんだって。

それから「この者が飢えないように毎年麦や米をあたえてくれれば、自分はとてもうれしい」と村人たちに頼んだんだ。

その信長の行動に山中の猿本人だけじゃなく、その場にいた人々はみんな涙を流したって伝わっているんだよ。

とくに女性に優しかった

それってただスケベなだけじゃないの、英雄色を好むっていうから。でもどうやらそれだけじゃないらしい。

信長には正室(本妻)・側室(めかけ)ふくめて9人の妻がいたんだって。

現代の男どもにとっては、うらやましいかぎりの話しだけど、当時は子どもの病死もおおく、戦乱の中では息子を殺されてしまうこともたびたび。

世継ぎがいないってことは家をまもるには致命傷になるんだ。

そこでおおくの武将は一人でもおおく子どもを作るために正室のほかに側室をおいたんだ。

良いおもいをしたかも知れないけど、なんか種馬みたいだね。

だから側室(めかけ)を子どもをつくるための道具のようにあつかう者もいたと思う。でも信長はちょっとちがったようなんだ。

信長の正室

信長の正室は濃姫。本名を帰蝶(きちょう)といって美濃(いまの岐阜県南部)の城主・斎藤道三(さいとうどうさん)の娘で政略結婚だったんだ。

しかし結婚後の史料があまりのこっていないので詳細は不明っていうのがほんとらしい。

だからドラマには良く登場して色々と描かれるんだ。でも子どもがいなかったのは事実らしい。

そのうち斎藤道三が死んだあと、離婚してしまうんだ。

理由はよくわからないんだけど、斎藤道三は生前こんなことを言っていたんだ。

「ムコ殿(信長)はワシより頭がいいから、美濃はムコ殿にまかせる」って、

でももしそうなら、離縁しなければ何もせずに美濃の国が手にはいったはずなのに、どうして?

そのあと帰蝶(濃姫)は京都で余生を自由にくらしたという。戦略の道具として使われた女性、濃姫への信長なりの配慮と優しさなんじゃないのかな。

最も愛した側室・吉乃(きつの)

側室の吉乃は由緒ある家の出ではなく、馬で荷物をはこぶ業者の娘なんだ。

ここにも身分の上下や格式にこだわらない信長の気質がうかがわれる思う。この吉乃を信長は最も愛したといわれている。

そして吉乃は信忠、信雄(のぶかつ)、五徳(ごとく・徳姫)の3人の子どもを立て続けに産んだんだけど、産後の肥立ちがわるくねこんでしまう。

信長も薬湯を取り寄せたり、医師をてはいするなど色いろ手を尽くすんだけど、そのかいもなく28才の若さで死んでしまう。

信長は城の望楼(ぼうろう)から吉乃が葬られた久昌寺の方をながめては涙を流していたというんだ。

ねね(秀吉の妻)への手紙

家臣の秀吉の奥さんである「ねね」が夫の浮気に悩んでいることを知った信長は、ねねにこんな手紙を送ったんだ。

『こないだ久しぶりにあなたに会ったが以前にもまして、綺麗になっているではないか。ハゲねずみ(秀吉のこと)があなたの不満を色々と言っているそうですが言語道断。あなた以上の奥さんをハゲねずみが嫁にもらうことなどないのだから』

〜秀吉のあだながサルから年を取ってハゲねずみに変ったんだね〜さらにつづけて

『堂々としていればいいのです。この手紙を秀吉にも見せてやりなさい』ってはげましたんだ。

家臣をいましめるだけじゃなく、その奥さんをはげます信長の配慮は、並の武将にはないおおきな愛を感じますね。

だから残虐で残忍だっていわれるけど、なぜか信頼され家臣がついていくんだね。

残虐な行為でかくれてしまう優しさ

ここまで信長の優しい面のはなしをしてきたけど、かなり残虐なことをしたのも事実です。

その代表的なのが比叡山焼き払いで3000人を皆殺しに、伊勢長島で2万人を虐殺、越前では3万人殺したという大殺戮(さつりく)。

そのために信長の性格に残忍で非道というレッテルが貼られてしまったんだ。

しかしその殺戮の数は信長自身が京都や各地の前線にいた重臣ら宛の手紙におおげさに盛って書いたものなんだ。

兵士たちの士気をたかめるためと、まわりの敵に大殺戮(さつりく)のうわさを流し、敵をおびえさせる心理作戦の意図があったと思われるんだ。

また比叡山事件にしても、僧(坊さん)にたいしてなんてことするんだって非難もあるけど、

当時の比叡山は仏の庇護(ひご)があることを良いことに、大金を稼ぎ、僧であるにもかかわらず、武装して極悪非道の限りをつくしていたんだ。

それに腹を立てた信長は焼き払ってしまったんだ。神仏ぎらいだったこともあるけど、信長の正義感がゆるせなかったんだね。

宣教師ルイス・フロイス

宣教師ルイス・フロイスはキリスト教布教のために日本にきて信長とも親交のあるポルトガル人。

そのひとが母国に日本の様子を報告するためにポルトガル語で書かれたもののなかに、織田信長について次のようにかかれているんだ。

◆中くらいの背丈でヒゲは少ない。

◆戦を好み、修練に励み、名誉心に富み、正義に厳格であった。

◆性急な性格ですぐに激昂するが、普段は大人しかった。

◆人から侮辱されると許してはおかなかった。

◆人情味と慈愛を示すこともあった。

◆家臣の言うことは聞かず、極めて畏敬されていた。

◆神や仏、宗教的なことには否定的だった。

◆自宅は清潔で、綺麗好き、身分の低い家臣とも親しく話をした。

◆人に対しては「貴様」という呼び方をした。

◆家臣の身分に関係なく、裸で相撲を取らせるのが好きだった。

◆戦術には老練、戦況が悪くても忍耐強く、明晰な判断力を持っていた。

◆難しい事に当たるときは大胆不敵で、家来たちは信長の言葉に服従した。

◆信長は稀に見る優秀な人物で、優秀な司令官として、賢明さを持って国を治めていたのは間違いない。

これは織田信長という人物を表すかなり信憑性の高い資料だと思うんだ。

まとめ

織田信長とは、攻撃性と慈悲、賢明さと即断、独創性と柔軟性、人情味と慈愛、正義感、乱暴と優しさ、

それぞれを同時に持つ、まれにみるユニークな戦国の逸材、天才的な名将なんだとおもう。

結論からいうと織田信長は「優しいひと」でもあり「残忍な人」でもある、どちらもアリの人じゃないかと思うんだ。

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