豊臣秀吉の天下統一から千利休との確執まで詳しく解説するよ

今からざっと500年前、それまで日本を治めていた足利氏の室町幕府が崩壊(ほうかい)した。

それから全国各地の戦国大名が自分の領土を広げようとあちこちで戦いを起こしはじめ、日本中がメチャクチャに乱れた戦国時代になったんだ。

そんな中いまこそ天下統一のチャンスと、彗星(すいせい)のように現れた武将が織田信長。

その主君の死んだあと意志をうけついで天下統一をなしとげたのが豊臣秀吉だよね。

その天下統一へのプロセスやエピソードはたくさん語られているので、そこはチョット遠慮して、

ここでは天下を治めるための政策や心境の変化、秀吉におおきく影響を与えた千利休(茶の道)などにおもきをおいて、

独断と偏見をまじえてはなしてみたいとおもうんだ。

天下平定のための政策

低い身分のひとが大出世して天下をとると、傲慢(ごうまん)な強権(きょうけん)政治になりがちなのは、

中国の秦の始皇帝(しんのしこうてい)や明の洪武帝(みんのこうぶてい)のように歴史が証明しているんだ。

それじゃあ、おなじような境遇(きょうぐう)から天下人となった秀吉はどんな政治をしたんだろう。

刀狩(かたなかり)令

これは百姓一揆(いっき)などで無益な殺しあいをなくすためと、農民と武士の身分をわけることを目的とした政令で3つの条文からなっているんだ。

第1条:農民が刀や脇差、弓、槍、鉄砲などの武器を持つことを固く禁じる。それにそむいたり、年貢をおこたったら罰する。

第2条:取り上げた武器は溶かして、大仏をつくる釘などにする。そうすれば、農民はあの世で救われる。

第3条:農民は農具だけを持ち農業に励めば、子孫代々無事に暮らすことができる。農民を愛するがゆえに武器を取り上げるのだ。

・・・・おもてむきは農民を無益な争いにまきこまず、農民を守るためだといってるけど、真の狙いはほかにあるような気がする。

第2条は秀吉のアイデアがひかるフェイク。じじつ刀の鉄は釘にはむかない、大仏の建造に使われたという史実はどこに

もないんだ。

つまり刀をうまく取り上げるための宣伝文句なんだね。

身分等政令

この政令は、のちの江戸時代・徳川の士農工商のもとになったともいわれている。

武士が町人や商人や農民になるのを禁じ、農民が商人や職人になることを禁止したんだ。

これは朝鮮出兵に向けて、武士の確保そして年貢をおさめる百姓の人員を確保することが目的とされている。

身分を変えちゃいけないっていうけど、えーっだって秀吉は農民から出世して武士のトップ関白になったんだよ、

チョット自分勝手でわがままなんじゃない?。

自分のような成り上がりの出世は、自分だけにしたかったんじゃないのかな。

刀狩令も身分等政令も、良い意味でいえば、世を安定させる賢い策。

悪い意味でいえば、じぶんの地位を守るための強引な策といえるんじゃないかな。

太閤検地(たいこうけんち)

これは全国的に農地をしらべる事業。でもこの政策はまえの2つとまったくちがって、

企画やアイデア、方法には秀吉の先をみる能力や聡明(そうめい)さがちりばめられている画期的なことなんだ。

まず長さの単位を6尺3寸を1間(けん=約191cm)とし、面積(めんせき)は1間4方でかこむ広さを1歩(ぶ=約3.65㎡)と決めたんだ。

これによって、それまでいいかげんだった田畑の面積が、正確に計れるようになったんだ。

現在でも日本家屋は尺や間をもとにたてられているんだ(いまの1間=約181.8cm)。

いまごはんを炊くとき、計量カップで米をはかるよね。当時は木でできた枡(ます)をつかっていたんだ。

ところがこの枡の大きさがバラバラだった、秀吉は米をはかるときは京枡に一本化し、升とか石という量の単位も統一したんだ。

これにより1つの田んぼから何石の米がとれ、年貢がどれだけ納められるかがわかるようになったんだ。

50万石、100万石の大名という領地のあらわしかたもこの米の量なんだ。

現代はメートル法で統一されている、ものを計るには基準の単位が大切って発想は、この秀吉の太閤検地からはじまったんだよ。

傲慢(ごうまん)政治と千利休(せんのりきゅう)

「成金(なりきん)」って言葉がある。

きゅうに大金持ちになって権力を手にすると、性格が変わったみたいに贅沢をしたり、わがままになるってことだよね。

でもこれってお金が性格をかえるんじゃなく、人間がもともと持ってる本能のようなものだと思うんだ。

目標に向かっているときは攻撃的に努力をしたけど、いざ目的をたっせいすると守りの姿勢で消極的になっちゃう。

でも消極的でおくびょうと思われたくないから、かえって逆に金と権力で「強いんだ」とカラ威張りするんだ。

秀吉も例にもれず、贅沢ざんまいと我がままし放題になっちゃた。

それに待ったをかけたのが千利休(せんのりきゅう)なんだ。

茶人・千利休とは

千利休はみなさんも知ってるように日本の茶道の基礎をつくったひと。

「わびさび」をおもんじる茶道と贅沢ざんまいの秀吉とでは水と油のようだけどどうして?

お茶は最初っから「わびさび」ではなく、「茶の湯」といって大名たちの遊びのひとつ、豪華な茶会をひらくのは力を見せつける道具だったんだ。

そこで秀吉も「茶の湯」に力を入れ、お茶の世界でリーダー的そんざいだった利休を大切にしたんだ。

利休も聡明で一途なひと、ものおじせずに意見をズバッというひとだった。

秀吉はムッとしても利休の言葉は的をえてるので一目おいていた。

「秀吉に意見できるのは利休しかいない」といわれるくらいで、たびたび政治的なアドバイスも求めていたらしい。

「茶の湯」から「茶の道」〜利休の切腹

しかし利休はお茶を政治や権力の道具にしてはいけないと考えるようになり、

たんなる遊びじゃなく、もっと純粋に芸術性をたかめ「茶の湯」から、質素なわびさびの心をもつ「茶の道」へと変っていった。

そして秀吉のエスカレートする贅沢や政治を戒めるようになったんだ。

じぶんの意見に逆らってばかりいる利休が、だんだんけむたくなってきた秀吉は、

ちょとしたことでインネンをつけ、ついに切腹をいいわたした。

本音は謝ればゆるすつもりだったけど、一途な利休は秀吉への戒めもふくめ、あえて切腹をうけいれたん

まとめ

豊臣秀吉がせっかくつかんだ天下だけど、その時代は長くつづかなかった。

20年もしないうちに徳川家康に滅ぼされてしまう。中国の秦の始皇帝や明の洪武帝の時代とおなじように、

傲慢(ごうまん)な政治はいっときうまくいっても、すぐにほころびがでて崩壊してしまうんだ。

民衆を権力でむりにおさえこむ政治は、かならず反発をよび短命におわるってことだね(どこかの国のどこかのスポーツ監督のように)

織田信長が優しいひとって本当?性格・人柄・エピソードを 簡単に説明するよ

天下統一まであともう少しってとこで明智光秀(あけちみつひで)の謀反により命をおとした織田信長。

幼少の頃から尾張(いまの愛知県)の大うつけと呼ばれた乱暴もの、破天荒(はてんこう)で気まぐれ。

それでもつぎつぎと強敵をなぎ倒していった強い戦国武将として有名だよね。

そんな残虐(ざんぎゃく)な戦をかさねた信長が、じつは優しい性格だって?

それではこれから、波瀾万丈(はらんばんじょう)のエピソードをとおして織田信長のひとがら・人物像をあらい出してみようとおもうんだ。

信長の生い立ち

尾張の国(いまの愛知県)の主、織田信秀(おだのぶひで)の嫡男(かとくを継ぐ長男)として生まれた信長は幼名を吉法師(きっぽうし)っていうんだ。

吉法師(きっぽうし)は生まれるとすぐ乳母に育てられることになるんだ。

ところがものすごく疳(かん)の強い子で乳母の乳首をかみ破っちゃうんだって。

それで何人もの乳母が交替したと伝わっているんだ。

疳(かん)が強いっていうのは、夜泣きがひどっかたり、すぐにかんしゃくを起こしたり、いちど機嫌が悪くなるとなかなか直らないんだって。

信長は赤ん坊のときから気性がはげしかったんだね。

だけど池田恒利(つねとし)の妻(養徳院ようとくいん)が乳母になったとたん、

不思議なことにその乳首だけはかみ破らなかったっていうんだ。きっとこのひとの乳だけは、信長には心地よく不思議なみりょくがあったのかも。

養徳院はのちに「大御乳(おおちち)さま」と呼ばれ尊敬されたんだって。

このエピソードからも好き嫌いのはっきりしている、乱暴と優しさが同居する性格の一片がみえるような気がするんだ。

尾張の大うつけ

幼少から青年時にかけては奇妙な行動が多かった。

袖を切ったおかしな服装で、山や野をあちこちと走りまわったり、仲間とつるんで馴れ馴れしい態度で町を練り歩いたり。

それでまわりからは尾張の大うつけ(常識にはずれた人物)と呼ばれていたんだ。

そうしながらも弓、鉄砲、兵法はそのころからきちんと先生について学んでいるんだ。

袖を切った服装も行動性をかんがえた工夫、また独自性をアピールするファッション感覚かも。

なかまと親しくつるむのも、将来じぶんの手足となる親衛隊をつくる手法かも。

町を練り歩くのも庶民の生活を知らなければ良い国はつくれない、民をおもう優しさの行動かも。

大うつけは演技だったっていう説もあるけど、天才によくある、あたまが切れたがための奇行。

それが変わりものに見え、うつけものって言われたんじゃないのかな

家督をついだ信長

父・信秀(のぶひで)の死後、家督をついで信長は織田家の城主となったんだ。

それでも生来の気性の激しさは変らず、また奇想天外な手法であっというまに城を築いたり、

強気の戦いでつぎつぎと領土をひろげ、まわりの強国をたおし恐れられていたんだ。そんななかにもいろんなエピソードがあるんだ。

墨俣(すのまた)一夜城

墨俣(いまの岐阜県大垣市)は美濃を落とすための要所。信長は2度ほど家臣に命じて城をたてようとしたが失敗していたんだ。

そこで木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が「7日のうちに完成させます」と言上して、信長は彼にその仕事をまかせたんだ。

普通は2〜3年もかかる築城をあっというまに藤吉郎は完成させてしまったのが、「墨俣一夜城」といわれる有名な逸話なんだ。

一夜でできたわけじゃないけど、そのくらい驚きの早さだったってことだよね。

川の上流から流した材木を組み立てるという木下藤吉郎のアイデアや実行力はすごい。

でももっとすごいのは信長の人の才能を見ぬく力と、偏見にとらわれない心のひろさなんだ。

農家の出だった藤吉郎をじぶんの家臣としてそだて、まだ身分が低かった藤吉郎(サル)に築城という重責をまかせた信長の眼力は、やっぱりスゴイのひとこと。

信長の名言に「人を用ふるの者は、能否を択ぶべし、何ぞ新故を論ぜん。」ってのがある。

これはひとを用いる(採用する)ときは、才能スキルがあるか無いかで選ぶべきで、

長くつとめたとか年上だとか、役が高いとかで選ぶのは論外のバカ、愚の骨頂だっていっているんだ。

まさに藤吉郎(サル)を登用したのはこの信念、ふところの大きさ、家臣をおもう優しさだとおもうね。

山中の猿

美濃と近江の国ざかい近く、いまの関ヶ原の山中村に「山中の猿」と呼ばれている体に障害のある男が街道沿いで乞食をして暮らしていたんだ。

このころ岐阜と京都をよく行き来していた信長は、

障害があるため普通の生活を送ることができないこの男をなんどか見かけて気にかけていたようなんだ。

そしてあるとき山中村の人々を呼び集め木綿20反を「山中の猿」に与え、「これを金にかえて、この者に小屋を建ててやれ」って命じたんだって。

それから「この者が飢えないように毎年麦や米をあたえてくれれば、自分はとてもうれしい」と村人たちに頼んだんだ。

その信長の行動に山中の猿本人だけじゃなく、その場にいた人々はみんな涙を流したって伝わっているんだよ。

とくに女性に優しかった

それってただスケベなだけじゃないの、英雄色を好むっていうから。でもどうやらそれだけじゃないらしい。

信長には正室(本妻)・側室(めかけ)ふくめて9人の妻がいたんだって。

現代の男どもにとっては、うらやましいかぎりの話しだけど、当時は子どもの病死もおおく、戦乱の中では息子を殺されてしまうこともたびたび。

世継ぎがいないってことは家をまもるには致命傷になるんだ。

そこでおおくの武将は一人でもおおく子どもを作るために正室のほかに側室をおいたんだ。

良いおもいをしたかも知れないけど、なんか種馬みたいだね。

だから側室(めかけ)を子どもをつくるための道具のようにあつかう者もいたと思う。でも信長はちょっとちがったようなんだ。

信長の正室

信長の正室は濃姫。本名を帰蝶(きちょう)といって美濃(いまの岐阜県南部)の城主・斎藤道三(さいとうどうさん)の娘で政略結婚だったんだ。

しかし結婚後の史料があまりのこっていないので詳細は不明っていうのがほんとらしい。

だからドラマには良く登場して色々と描かれるんだ。でも子どもがいなかったのは事実らしい。

そのうち斎藤道三が死んだあと、離婚してしまうんだ。

理由はよくわからないんだけど、斎藤道三は生前こんなことを言っていたんだ。

「ムコ殿(信長)はワシより頭がいいから、美濃はムコ殿にまかせる」って、

でももしそうなら、離縁しなければ何もせずに美濃の国が手にはいったはずなのに、どうして?

そのあと帰蝶(濃姫)は京都で余生を自由にくらしたという。戦略の道具として使われた女性、濃姫への信長なりの配慮と優しさなんじゃないのかな。

最も愛した側室・吉乃(きつの)

側室の吉乃は由緒ある家の出ではなく、馬で荷物をはこぶ業者の娘なんだ。

ここにも身分の上下や格式にこだわらない信長の気質がうかがわれる思う。この吉乃を信長は最も愛したといわれている。

そして吉乃は信忠、信雄(のぶかつ)、五徳(ごとく・徳姫)の3人の子どもを立て続けに産んだんだけど、産後の肥立ちがわるくねこんでしまう。

信長も薬湯を取り寄せたり、医師をてはいするなど色いろ手を尽くすんだけど、そのかいもなく28才の若さで死んでしまう。

信長は城の望楼(ぼうろう)から吉乃が葬られた久昌寺の方をながめては涙を流していたというんだ。

ねね(秀吉の妻)への手紙

家臣の秀吉の奥さんである「ねね」が夫の浮気に悩んでいることを知った信長は、ねねにこんな手紙を送ったんだ。

『こないだ久しぶりにあなたに会ったが以前にもまして、綺麗になっているではないか。ハゲねずみ(秀吉のこと)があなたの不満を色々と言っているそうですが言語道断。あなた以上の奥さんをハゲねずみが嫁にもらうことなどないのだから』

〜秀吉のあだながサルから年を取ってハゲねずみに変ったんだね〜さらにつづけて

『堂々としていればいいのです。この手紙を秀吉にも見せてやりなさい』ってはげましたんだ。

家臣をいましめるだけじゃなく、その奥さんをはげます信長の配慮は、並の武将にはないおおきな愛を感じますね。

だから残虐で残忍だっていわれるけど、なぜか信頼され家臣がついていくんだね。

残虐な行為でかくれてしまう優しさ

ここまで信長の優しい面のはなしをしてきたけど、かなり残虐なことをしたのも事実です。

その代表的なのが比叡山焼き払いで3000人を皆殺しに、伊勢長島で2万人を虐殺、越前では3万人殺したという大殺戮(さつりく)。

そのために信長の性格に残忍で非道というレッテルが貼られてしまったんだ。

しかしその殺戮の数は信長自身が京都や各地の前線にいた重臣ら宛の手紙におおげさに盛って書いたものなんだ。

兵士たちの士気をたかめるためと、まわりの敵に大殺戮(さつりく)のうわさを流し、敵をおびえさせる心理作戦の意図があったと思われるんだ。

また比叡山事件にしても、僧(坊さん)にたいしてなんてことするんだって非難もあるけど、

当時の比叡山は仏の庇護(ひご)があることを良いことに、大金を稼ぎ、僧であるにもかかわらず、武装して極悪非道の限りをつくしていたんだ。

それに腹を立てた信長は焼き払ってしまったんだ。神仏ぎらいだったこともあるけど、信長の正義感がゆるせなかったんだね。

宣教師ルイス・フロイス

宣教師ルイス・フロイスはキリスト教布教のために日本にきて信長とも親交のあるポルトガル人。

そのひとが母国に日本の様子を報告するためにポルトガル語で書かれたもののなかに、織田信長について次のようにかかれているんだ。

◆中くらいの背丈でヒゲは少ない。

◆戦を好み、修練に励み、名誉心に富み、正義に厳格であった。

◆性急な性格ですぐに激昂するが、普段は大人しかった。

◆人から侮辱されると許してはおかなかった。

◆人情味と慈愛を示すこともあった。

◆家臣の言うことは聞かず、極めて畏敬されていた。

◆神や仏、宗教的なことには否定的だった。

◆自宅は清潔で、綺麗好き、身分の低い家臣とも親しく話をした。

◆人に対しては「貴様」という呼び方をした。

◆家臣の身分に関係なく、裸で相撲を取らせるのが好きだった。

◆戦術には老練、戦況が悪くても忍耐強く、明晰な判断力を持っていた。

◆難しい事に当たるときは大胆不敵で、家来たちは信長の言葉に服従した。

◆信長は稀に見る優秀な人物で、優秀な司令官として、賢明さを持って国を治めていたのは間違いない。

これは織田信長という人物を表すかなり信憑性の高い資料だと思うんだ。

まとめ

織田信長とは、攻撃性と慈悲、賢明さと即断、独創性と柔軟性、人情味と慈愛、正義感、乱暴と優しさ、

それぞれを同時に持つ、まれにみるユニークな戦国の逸材、天才的な名将なんだとおもう。

結論からいうと織田信長は「優しいひと」でもあり「残忍な人」でもある、どちらもアリの人じゃないかと思うんだ。

あなたはどうおもったかな?