孫子の兵法の読み方〜その①孫子の兵法から学ぶ、成功の秘訣は、早くスタートを切って十分な準備をすること

今回は仕事でも勉強でもいろんな目標を達成するための活動で応用がきく話です。

自分が将来何か成功を収めたい、仕事で成功を収めたい、必要な情報を素早くインプットしてキャリアupしたい、

いろんな状況で目標を持っている場合に大事なことは、スタートは1日でもはやくきりましょう!って話をわかりやすく説明します!

物事は早めに取り掛かろう

スタートというのは下準備も含みます、分析とか。

そういった形で自分が目指すゴール、通常は目標とする時期って決まってますよね。

この時期までに何をやるかということを決めたら、1日も早くスタートを切って、そして必要な努力をしましょう

孫氏の兵法でも尊重される入念な準備

孫氏の兵法という中国の古典でも書かれていますが、入念な準備、これを一文字で計と言いますが、

やはりいろんな要素があって事前に十分な国の力を蓄えておくことで外交とか戦争とか他国との競争に勝てるんです。

孫氏の兵法は勉強にも通じる

この一つの国を受験生と考えたらビジネスの勉強でもそうですが、他のビジネス相手との切磋琢磨、競争みたいなものがあります。

あとは駆け引きとかもあるわけです。

そういったことに対しても、企業側が何を求めているかリサーチしたりライバル企業がどういったことを売りにしているか調べたりするには早いに越したことはありません

入念な準備に必要なもの

そういったものに打ち勝つには自分に十分な基礎力がないとまずい。

基本的な要素ってあります、この知識は身に着けるべきであると。スキルや知識など。

スタートは早ければ早いほどいい

必要な部分は決まっています。

それをもう一度限られた時間の中で時間配分をしながら必要な努力を継続し、そしてそれをこなしていく

1日でも早いほうが時間は残されています。

たくさん時間があったほうが準備にかけられる時間は多いのでやはり時間は多いほうが有利なのは間違いない。

何かのせいにしても意味がない

迷ってないで始めようと決めたら一日でも早く再スタートを切りましょう

やってく中である程度まではうまくいくがクロージングが難しいところがあって、それでつまずいた方もいらっしゃるかもしれない。

その時に誰かのせいにしないことね。

試験傾向がどうとか、誰かがこういったというような人のせいにしない。

そういうふうに考えている間は別の分野でもいろんな部分でなかなかレベルアップ出来ません。

自分でできる範囲内でいい

自分で出来る範囲のところに原因を定めて、
どうしようもない環境や社会とか周りのせいにして足を止めないようにしましょう。

まずはできることからコツコツはじめて、着実にできる範囲を広めるほうが吉です。環境に問題があるならかえるのみ。

失敗したら素直に準備不足だと認めよう

だからもし失敗したらそれは自分の準備不足なんです。

自分が悪いんです。そう考えたほうが次につながりますよ。

ネットであの学校の先生がこう言ってたとか、だから僕はこうしたんだとか、何もかも人任せにしていると一生人任せの人生になってしまいます

どの勉強法でも結果は出る

誰かの評価に左右される人生はやめましょう、自分で判断する。

ということは、自分で責任を取るということです。

そう考えると計画からインプットからアウトプットからは自分で決めるんです。

決めたらどの勉強法でも結果は出てるんだから、信じて付いていくのが一番いい。

最初から最後までその勉強法に向き合ったほうが最終的にプラスになります

効率の悪い勉強法は準備不足につながる

何事もうまくいかない人は常に他の方法があるんじゃないかと浮気性になっちゃうんですよ。

この科目はこれ、あの科目はこれみたいに使い分けるんですね。

そういう使い方をしてると集中出来ないので勉強が散漫になる。

一つ決めたらこれ、あちこちフラフラしていると一本の筋が通りません。

自分が出来ないことに原因を定めて、それを徹底的に

十分だと思ってからもさらにもっとプラスでやるんです。自分が十分だと思ってうまくいかない人は、その十分というのはまだ足りないんです。

自己満足になっちゃってるんです。だから思い込みを持たない。

真っ白な気持ちでもう一度自分の努力不足を考える。

たいていは努力不足です。それを見極めて自分なりに自己責任で自立して頑張ってください。

孫氏の兵法は現代でも有効な教え

めんどくさいと言って大事なことを後回しにしても
自分に何の得もない、それどころか大きく損をしますよね。

大事な試験を控えているのに直前まで徹夜でゲームしてテスト当日はぶっつけ本番でいくなんてことしたら間違いなく落ちますよね。

とにかく早く始めること、早く始めれば早く始めるほど時間がいっぱい残っています

時は金なり、早い準備を心掛けよう

時間が資源です。準備期間を十分にとって勉強が出来ればそれがベストですよ。

残された時間はそんなに多くないので、思い立ったら吉日、早く始めて十分に準備をする。

そうすると成功しやすいです。まずは自分の出来ることから始めましょう

まとめ

これでもかというくらい準備をしましょう。頑張ってください。

ここまでご覧いただきまして誠にありがとうございました。

ルイブライユはどんな人?歴史は?人生「一生」は?家族は?すべてまとめたよ!

ルイブライユってあまり聞きなれない名前だよね。でも一寸びっくりなんだけど「キッズ検索ランキング」人名部門で、毎年のように1位になってる人なんだって。

それは小学校4年生の国語の教科書にでてきて、ルイブライユについて調べてきなさいってよく宿題にだされるんだ。

だから検索ランキング1位になるんだね。ちびっ子にはよく知られているけど大人が知らないのはちょっとしゃくだよね。

そんなことでルイブライユの人物像について詳しく調べてみようと思うんだ。

どんなことをした人なの?

いまから約200年以上前、日本はまだ江戸時代、徳川第11代将軍家斉(いえなり)のころで、二宮尊徳(金次郎)が生きていた時代。

フランスで生まれ、目の見えない人が自分たちの文字を手に入れたといえる、6点点字を考案した人なんだ。

当時には目の見えない人にとって、簡単に読み書きできる文字はなかった。

本をよみたくても読んでもらわなきゃならない、手紙を書きたくてもかけない。そんな人にとっては画期的な発明だったんだ。

いまや彼の考案した点字は全世界に広まり、各国のことばにあわせて改良され、目が見えない人の生活を豊かにするきっかけになっているんだ。

点字のことを英語やフランス語ではブライユ(braille)っていうくらいなんだ。

ちょうど体操競技で「シライⅢ」とか「モリスエ」って技を考案した人のなまえがつけられているのは知ってるよね。

そのスケールをおおきくして、専門分野だけじゃなくいっぱん的につかわれる言葉になってるんだ。

名前がそのまま点字そのものの意味を表すなんてスゴイよね。

ルイブライユの生い立ち〜失明


ルイブライユは1809年にパリから40キロほどはなれた人口2700人のほど小さな田舎村で、4人兄弟(姉が2人、兄が1人)の末っ子として生まれ、かわいがられていたんだ。

父は馬具や革靴などを作るすぐれた腕前の職人で、家のなかにその仕事場があったんだ。

ところが3才のとき、きっと末っ子だからいたずら好きだったんだね、

親のいない留守に仕事場にはいって遊んでいるうち、父のつかっているキリで左目を突き刺してしまい失明してしまったんだ。

その後そのケガがもとで感染症になり、5才のときには右目も失いついに全盲(まったく目が見えない)になっちゃたんだ。

10才で親元をはなれ盲学校へ


当初は目のみえる人といっしょに村の学校に通っていて、成績も優秀だったんだけど、しょせん目がみえる人向けの教育なので限界がある。

勉強熱心だったルイにもっと教育を受けさせたいと思う親の愛情のおかげで、パリにある王立盲学校に入学することができたんだ。

このパリ王立盲学校というのは世界初の盲学校、この学校に出会えたってことはものすごくラッキーなことだよね。

しかし田舎村からパリまで通うには遠すぎるので、10才のおさないルイはたった一人で親元をはなれ、寄宿舎で寝泊まりをしながら盲学校に通うことになったんだ。

軍事暗号用の12点文字との出会い

この盲学校で教育につかわれていた文字は、学校の創設者バランタン・アユイが考案した線文字が使われていたんだ。

線文字は、アルファベットの形を浮き出させたものを指で読み取る方法なので、すらすら読むことはむずかしく、盲人が書くことなんてとってもできないしろものだったんだ。

ルイが12才のころ、シャルル・バルビエという人が、じぶんが開発した12点字が盲人の教育につかえないかとこの学校にもちこんできた。

これがルイブライユにとって点字というものに出会った最初なんだね。

この点字はもともと盲人用に開発されたものじゃなく、フランス軍が暗い場所で暗号をつたえる手段として開発されたもの。

それでもいままでの線文字にくらべればかなり分かりやすくなったけど、まだまだ種類がおおく複雑で、数字や音楽を表現できないという欠点があり不十分だったんだ。

ルイブライユが提案した3つの改良点

そこでルイはもっと使いやすい点字にできないかと思って、シャルル・バルビエにつぎの3つの提案をしたんだ。

①盲人でも書けるような文字にする。(12点字ではむずかしくて書くことができない)

②句読点、数字、楽譜も書けるようにする。

③12点式ではまだ複雑なので、もっとカンタンな6点式にする。

これは余談なんだけど、当時の目の見えない人は普通の教育を受けられることはまれで、道ばたで楽器を演奏するなど音楽で生活を送っている人が多かったんだ。

日本でもむかしは盲目の琵琶法師(びわほうし)などが道で弾がたりをしていたように、

いまでいえば路上ライブなんだけど、当時では生活のためにしかたなくやっていてカッコイイものじゃなかったと思う。

ちなみにルイも音楽の才能があり、ピアノはプロなみにうまかったようだよ。

しかし盲人には楽譜をよんだり書いたりすることはできなく、耳できくしかなかったんだ。

それでルイは点字で楽譜がかければ、どんなに助けになるかとおもったんだと思う。

しかし残念ながら、この3つの提案は聞き入れてもらえなかったんだ。

6点式点字の誕生

そこでこんどは自力で改良しようと学校の授業の合間のじかんに、クラスメートと議論しながら色々とためしながら研究をかさねたすえ、ついに6つの点から構成される点字方式を考案したんだ。このときルイはまだ16才。

想像してみてごらん、16才っていえば今の日本では中学3年か高校1年生だよ。

その若さでつくりだしたなんて「おどろき、もものき、さんしょのき」だよ。こうして今や世界の140カ国以上で使われているブライユ点字が誕生したんだ。

盲学校卒業〜晩年

盲学校を卒業したルイブライユは教員として学校に残り、17才のときには年少の生徒に、数学・文法・地理を教え。

18才でフランス語文法の本を6点式点字に訳し、19才で点字の楽譜を考案し、音楽も教えるようになったんだ。

20才のときに『点を使ってことば、楽譜、簡単な歌を書く方法~盲人のために作られた盲人が使う本~』という本を出版。

28才のときに現在のようなかたちを完成させたと伝えられているんだ。

この点字はアルファベットはもちろん、数字、アクセント記号、音楽を表現できるから、

目の見えない人々にとって、文学活動をおこなう手段や、音楽を楽譜として書きとめる方法を手に入れたこととなり、

また目のみえる人とのコミュニケーションの手段もふくらみ、それまでの盲人の生活を豊かにする画期的な発明となったんだ。

そのご教員をつづけながら、晩年には音楽の才能を活かして、教会でオルガンも弾いていたんだ。

ざんねんながらあまり身体が丈夫でなかったルイブライユは、肺結核にかかり43才という若さでこの世を去ってしまった。

フランス政府がルイブライユの点字を公式に採用したのはその2年後。かれの生まれ育った家は、いまは点字博物館になっているんだって。

まとめ

ここまでルイブライユの人物と歴史をはなしてきました。

偉大な発明や功績をのこしたひとっていうのは、ハンディーをのりこえようとする、おなじハンディーをかかえるひとを助けたい、と思うきもちから生まれるような気がするんだ。

もしあなたが何らかのハンディーを感じているなら、このはなしをバネにして人生を歩んでいくことを願って、おわりにしたいと思います。

石田三成 最後の1日、残した言葉とは?わかりやすく解説するよ

 

ひとむかし前まで石田三成(いしだみつなり)といえば、

優秀ではあるけど、よこしまな陰謀で豊臣秀吉の偉業を台無しにし、家康に逆らった奸臣(かんしん=腹黒い家臣)とされることが多い。

しかし最近では三成ゆかりの地に住む人々の名君ぶりを伝えるPR活動や、あたらしい史実で少しイメージがかわってきたんだ。

三成には多くのエピソードがあるんだけど、ほとんどが後世につくられたもの。

つまり徳川の世になり敗軍の将として、ことさら悪者のイメージをうえつけるため、ねつ造された話が多いのかもね。

ここでは最後の1日に至るまでと残した言葉から、石田三成の真のすがたにせまって見たいとおもうんだ。

容姿、風貌(ふうぼう)からうけるイメージ

石田三成の身長は156センチで小柄、骨格はかなりキャシャ。

顔も無骨というよりもおだやかで、戦国の武将というよりは頭を使う仕事にに向いているタイプのよう。

これらのデータは、残っている遺骨をもとに復元したものなので、かなり信憑性(しんぴょうせい)は高いとおもわれるんだ。

また色白で目が大きく、まつげは濃く、声は高かったと江戸時代の記録にある。

これらの容姿や風貌が、悪い意味では頭は回るけど腹黒いよこしまなイメージ。

よい意味では頭脳明晰(めいせき)で難問をテキパキとこなす戦術家タイプを生みだしているように思えますね。

アニメやドラマの登場人物でも、からだが大きく大柄なひとは、成績は悪いけどスポーツマンタイプで乱暴だけどおおらか。

ぎゃくにチビでかぼそい人は秀才タイプ。ヒーローや悪役になるのはこのどちらかのタイプ。

容姿からすると石田三成は後者で、ヒーローにも悪役にもなるタイプなんだね。

東西分け目の「関ヶ原の戦い」

天下統一をはたした豊臣秀吉のもとで、太閤検地などの革新的政策のおおくを実行にうつしたのは石田三成なんだ。

また秀吉の政策に不満を持った家臣も、ちょくせつ秀吉に怒りをぶつけることができないので、

それを実行している三成にあたり、家臣に人望がなく嫌われているといわれるのもその辺にあるのかもしれないね。

しかし豊臣家への忠誠心には半端ないものがあったようだ。

そして秀吉が世をさり政権が乱れてきたとき、ここぞとばかりに徳川家康が政権をのっとろうと勢力を拡大してきたんだ。

決戦の日

ついに豊臣家をまもるため、関ヶ原で決戦の日をむかえた。

石田三成は西軍(豊臣側)の大将(総大将は毛利輝元)として東軍(徳川側)をむかえうったんだ。

さいしょは西軍の兵力のほうが有利と思われていたけど、おもわぬ小早川秀秋軍や脇坂軍、小川軍のねがえりによって、形勢はいっきに逆転し、たった6時間でまけてしまったんだ。

三成の本陣も崩壊し再起をちかい伊吹山へと落ちのびてたんだが、ついに東軍の追っ手につかまってしまった。

そのとき追っ手の兵が「武士らしく自害するのがふつうなのに、どうしてしないんだ」と聞いたとき

三成は「自害するのは雑兵がすること、大将はなんとしてものがれて再起をはかるもの」っていったんだ。

これって逃げたいい訳のようにもとれるけど、豊臣家を再起できるのは自分しかいないと思った本心かも知れないね。

最後の1日〜最後の言葉

とらえられたのは石田三成のほかに小西行長や安国寺恵瓊(えけい)らがいたんだ。

そこで家康はいちおうみな大名だし、汚い服のままで処刑されてはしのびない。あたらしい小袖を授けようと、使者がもってきたんだ。

ふたりはうけとったが、三成は「これ(小袖)はどなたからですか?」と聞くと使者は「上様(家康)からです。」とこたえたんだ。

すると三成は「上様は、秀頼公以外にはいないのだ!なんという無礼な!そんなものはいらん!」と言って、受け取らなかったんだ。

関ヶ原の戦いに勝ったのは家康だ、でも家康はまだ豊臣の家臣のはず、上様と呼べるはずがない!という三成の弁もうなずける気がする。

処刑の日

三成ら3名は京都の市中を引き回されたのち、鴨川の六条河原(ろくじょうがわら)で打ち首の刑になるんだ。

処刑される直前に、のどが渇いた三成は、湯をのませてもらえないかと頼んだんだ。

すると「湯はすぐに用意できないけど、干し柿ならあるどうですか?」といわれ「いや、干し柿は痰(たん)の毒になるからいらない」とことわったんだ。

「これから処刑されて死ぬものが、毒を気にするのはおかしいじゃないか」といわれ

三成は「大志をいだくものは、最後の瞬間まで命を惜しむもの」とこたえたんだ。

これは有名なエピソードだけど、三成が意地をはったようにもみえるが、本気で大志をいだくものの心意気をかたったようにもとれるんだ。

まとめ

三成が総大将であったかのように処刑されたことに対して、おかしいと感じていた人びともいたんだ。

だって西軍の最大の責任者は毛利輝元であったはずなのに、助命されている。

たしかに関ヶ原で毛利は動かず、戦いに加わらなかったから処刑を免れたのかも知れない。

でもそもそも総大将が動かないのはおかしいじゃない?家康とウラ取引があったのかもしれない。

悪名と罪をせおわされて、死んでいったとも言えるんだよね。

石田三成という人物は奸臣(かんしん)なのか、義をまもった忠義のひとなのか。

最終的に天下を取った家康側からみた場合と、最後まで失うものを守ろうとした豊臣側からでは、意見がわかれるとこだよね。

さてあなたはどう感じましたか?

織田信長について 子供にもわかりやすく 話しをするよ!

織田信長(おだ・のぶなが)ってなまえは学校の歴史でならって知ってるとおもうんだ。

でも学校の歴史ってあんまり面白くないよね。どうしてってテストがあるからさ、テストのためにおぼえなきゃなんないからさ。

良い点数をとればほめられるけど、悪い点数だとおこられちゃう。

ここではテストがないから安心していいんだよ。

ちょっと面白いかもって思うとこだけ、あたまの中にちょっとだけレポート(セーブ)すればいいんだ。

それじゃ織田信長(おだ・のぶなが)について話しをはじめるよ。

戦国時代(せんごくじだい)

諏訪原寛幸

いまからざっと500年まえの日本は、全国をまとめるトップの将軍(しょうぐん)がいなくんっちゃったんだ。

そこでいまがチャンスと各地の大名や武将(ぶしょう)がトップの座を取ってやろうとそれぞれが戦いをはじめた、それを戦国時代っていうんだ。

つまり日本中のあちこちで戦争をしている、グチャグチャでハチャメチャな時代。

そんななかで尾張の国(いまの愛知県)から、まわりの敵をつぎつぎとたおして、あともう一歩で天下統一(トップの座)ってとこで、

家臣(かしん=じぶんの家来)の明智光秀(あけちみつひで)のうらぎりで命を落としたのが織田信長なんだ。

その戦いのつよさ、あっといわせる作戦、破天荒(はてんこう=今までだれもしなかったような事をする)な生き方やエピソードで、

ドラマになったり多くのひとを感動させる戦国時代の英雄(えいゆう)なんだよ。

信長(のぶなが)の子どもの時代

信長がおさないころ、庭であそんでいると小ちゃなヘビがでてきたんだ。

そこでそのヘビを捕まえて、そばにいた家来に「これって勇気あること?」って聞いたんだ。

家来が「小ちゃなヘビなんだから怖がることはないよ」ってこたえると、

ムカッと来た信長は「ヘビの毒は大小できまるんじゃない」〜たしかに小さくても毒をもったヘビはたくさんいる。

つづけて「小さいから怖がらないなら、もし主君が子どもなら、おまえたちはあなどる(=軽くみる)のか!」って言い返したんだ。

これは信長が子どもで小さいから軽くみるのかって怒ったようにもとれるけど、そうじゃないんだ。

この戦乱のよを生きてゆくには、敵の大小で力をはかっちゃダメ。敵の国が小さいとか、兵士の数が少ないからといってバカにしちゃいけない。

小さくても毒を持っていることがあるから気をつけなきゃダメなんだっていってるんだ。

やっぱり信長は子どものころから大物になる素質があったんだね。

若いころの信長

若いころの信長は、きものの袖(そで)を切ったユニークな服装で、仲間とつるんで、山や野を走りまわったり、

町の中をうろついていたずらしたり、とにかく君主のあととりには思えないメチャクチャな行動をしてたんだ。

そのため尾張の大うつけ(=悪ガキ・ガキ大将)ってよばれてバカにされていたんだ。

それは敵を油断させるためっていう人もいたけど、それだけじゃない信長なりのアイディアや考えがあったように思うんだ。

大うつけ(=悪ガキ)は準備運動

きものの袖って手首のところが広くてヒラヒラしてる、作業をするときにじゃまになるから腕まくりをする、

だったら最初っから無くしちまえばいいやってのが信長のアイデア。

忍者の服装を想像してごらん、そではみじかく腕のところにはフィットした下着をつけているよね。

すばやく動かなければならない忍者、信長のファッションも動きやすさのためなんだ。

行動性のアイデアだけど、ふつうじゃ思いつかないユニークな服装が、変わり者のイメージをつけちゃったんだ。

また「仲間とつるむ」ってこともワルがきのグループ・ガキ大将におもわれたんだ。

でも信長には戦いはひとりじゃできない、信頼できる部下や仲間がひつようだってことが分かっていたんだ。

また大将は先頭にたって、ともに戦わなきゃ仲間がついてこないこともしっていたんだ。

つまり「大うつけ(悪ガキ)」は大将になるための準備運動だったてわけさ。

信長の戦略・奇策

家督(=父のあとをついで君主になること)をついだ信長は、はやばやと尾張(愛知県)全部を治めるまでにのしあがったんだ。

まわりの敵国からは生意気なやつって思われたんだろうね。

そしてついに、となりの国の強敵、今川軍が調子にのってる信長を今のうちにつぶさなきゃって攻めてきたんだ。

これは信長にとって最大のピンチ、だって今川義元(いまがわよしもと)ひきいる軍勢は2万5千。

信長軍はどんなに兵をかきあつめてもたったの5千しかいない、どうみたって不利。そこで信長は考えたすえに

城を守って戦ったら絶対まける、外にでてむかえうつしか勝機はないって戦ったのが、

歴史の教科書にも出てくる有名な桶狭間(おけはざま)の戦いなんだ。

桶狭間(おけはざま)の戦いの勝因

それじゃあ最大のピンチの桶狭間の戦いにどうやって勝ったんだろう。

じっと情報をあつめ頃合いをうかがっていた信長は、

今川軍が5千の今川義元(総大将)の本隊と2万の兵が、別行動しているのを知ってシメタとおもったんだ。

そして本隊の居場所がわかったとき、これぞ絶好のチャンスと夜中にはねおきて、

いそいで兵をあつめ、たった2千の軍勢で今川義元の本隊5千に奇襲をかけたんだ。

このとき幸運にも大雨が降っていたんだ。まさか大雨の中を進軍するなんて誰もかんがえない。

これは今川にとってもおなじ、まさかこんな大雨の中を攻めてくるなんておもわなかったんだね。

だから大あわての今川軍は戦うどころじゃなくサンザンバラバラ。ついに今川義元(総大将)の首をはねて勝利したんだ。

信長のチャンスをのがさない、直感とすばやい行動と、天(雨)を味方につける強運はまさに天才だね。

もうひとつ「農民おもてなし作戦」ってのがあって、

信長のスパイが農民に変装して、今川の2万の別働隊に酒や餅(もち)をふるまって足止めしたってはなしがあるけど、どうもあやしいかなこれ。

情報作戦

じつは信長は少ない軍勢で大軍をたおすために情報をうまくつかっていたんだ。

現代ではサイバー攻撃とか、メディアやネットでフェイクニュースを流して相手を混乱させるって作戦は使われるんだけど、戦国時代にはそんなものないよね。

そこで信長は100人の兵で3千人を皆殺しにしたとか、2千の兵で3万4万の大軍をけちらしたとか、

戦果をすこし大げさにもったファイクニュース手紙にして、

とくに情報を敵にもらしやすい大名や武将にばらまいて、戦うまえに敵をびびらせたんだ。

びびった兵士ほどよわいものはないからね。この時代に心理戦、情報戦が勝ち負けにおおきくエイキョウするってかんがえたのはスゴイね。

こうしてどんどん勝ち進んで、天下のトップにあと一歩までになった戦国の奇才・名将が織田信長なんだ。

まとめ〜最期にひとこと

このほかにも信長は強いだけじゃなく女に優しい人だったとか、

奇想天外(きそうてんがい)なエピソードもたくさんあるけど、それはつぎの機会にまた。

ところでなんか面白いとこはあったかな?歴史ってちょっと深くほってみると、意外なことっていっぱいあるんだ。

でもその史実(=歴史の真実)も見かたによって、まるで真ぎゃくにもなることがあるんだよ。

だって何百年もまえの、ほんとのことをいったい誰がしっているっていうの?だから歴史に正解はないんだよ。

歴史のテストに答えはほんとはないんだ。君たち自身の歴史だけがほんとうの答えなんだよ!

西郷隆盛 島流しの訳がヤバイ〜奇跡の復活までわかりやすく解説するよ

西郷隆盛(さいごうたかもり)といえば新しい日本をつくった明治維新の英雄。その西郷は若い頃に2回も島流しにされているんだ。

「島流し」とは昔の罪人が罰(ばつ)として、カンタンに逃げ出せない海の島に流される刑のことだよね。

どうして明治維新の英雄にもなるような人が「島流し」の刑に、しかも2回もどうして?そのへんを詳しくせつめいしたいと思う。

1回目の島流し

西郷隆盛は若くしてその才覚を島津斉彬(しまづ なりあきら=薩摩藩の君主)にみとめられ、

参勤の一行に加えられて4年間の江戸の勤務が始まったんだ。

斉彬(なりあきら)公は、始めから西郷を薩摩の重臣、腹心の部下に育て上げる考えでいたので、

諸侯にも紹介するなどして西郷の名前は次第に知れわたっていったんだ。

安政の大獄(あんせいのたいごく)

このころ幕府では十四代将軍の座をめぐって、

紀州藩の徳川慶福(とくがわ よしとみ)をおす老中・井伊直弼(いいなおすけ)と、

一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ)をおす島津斉彬(西郷の主君)、松平春嶽(越前藩)とのあいだで激しく対立していたんだ。

ところが安政5年(1859年)に斉彬公が急死してしまったんだ(暗殺されたという説もある)。

これをチャンスとばかりに、大老となった井伊直弼は反対派の大弾圧にのりだした、これが「安政の大獄」。

反対派の公家や大名、志士たちが大量に処罰されてしまったんだ。

月照(げっしょう)と入水自殺

身に危険がせまった西郷は、勤皇派(天皇を主君とするかんがえ、薩摩も勤王派)として京で活躍していた僧の月照とともに鹿児島へ脱出することになったんだ。

ところが斉彬が死んだあとのの薩摩藩には、幕府に対決する気などまったくなく、

帰ったものの追い詰められて絶望した西郷は、月照とともに船から海にとびこんで自殺をはかったんだ。

もちろん月照は男の僧、西郷にそちらほうめんの気があったんじゃなく、人間としての月照に心酔したんだろうね。

しかし海から引き上げられて、月照はそのまま死んでしまったけど、西郷は生きかえってしまったんだ。

自分だけが生き残ってしまったことは、かなりのショックで心におおきなダメージを残したんだ。

奄美大島への島流し

これにこまった薩摩藩は、先代の藩主斉興(なりおき)公の指示もあり西郷を死んだことにしちゃったんだ。

そして菊池源吾(きくち げんご)と別名の罪人にしたて、奄美大島へ島流しにしたんだ。

こうやって幕府の目をごまかすために、ほとぼりが冷めるまで3年間、政治の世界から姿をけすことになったんだ。

そのくらい西郷隆盛は薩摩にとって大切なひと、人望もあったということなんだね。

奄美大島でのくらし

奄美大島は鹿児島のはるか南、種子島や屋久島よりさらに南のはなれ島。島流しといっても幕府の追求をのがれるためのカモフラージュ。

だから罪人には異例の6石の支給があり、生活もわりと自由で、とりあえず食うには困らなかったようなんだ。

もちまえの性格で島民からも慕われ、

十ヶ月後には23才の地元の有力者の娘『アイガナ(愛加那)』を島妻(アンゴ)として結婚しちゃったんだ(チョット手が早すぎるんじゃない)。

そのご2年の間に一男一女がうまれます。長男は菊次郎といってのちに京都の市長に、長女菊子も陸軍元帥の弟夫人になったんだよ。

うらやましいくらい1回目の島流しはラヴラヴだったんだね。

愛加那(アイガナ)との別れと奇跡の復活

薩摩藩は斉彬(なりあきら)が死んだあと君主になったのは弟の島津久光(しまずひさみつ)。

ところが久光は中央での人脈がなく、政治手腕もあまり上手ではなかったんだ。

また兄の斉彬にかわいがられて才能のある西郷をはげしく嫉妬してきらっていたんだ。

しかし幕府と立ち向かっていくためには西郷の力が必要、そこでしぶしぶ側近の大久保利通を使って島流しから呼び戻すことになった。

こうして西郷はふたたび政治の表に復活することになったんだ。

でも当時のきまりで島妻(アンゴ)は本土には連れて行けない、愛しい愛加那(アイガナ)と涙のわかれとなってしまった。

こうして3年2ヶ月にわたる奄美大島の島流しがおわることになったんだ。

2回目の島流し

島津久光は薩摩藩兵を率いて上洛して、「公武合体」を推しすめるため顧問役とし西郷を使おうとしたんだ。

しかし西郷は久光の力量不足を見抜いていたので、上洛に反対したんだ。

そんなことで久光公と西郷の関係はますます険悪になったんだが、大久保利通の必死の取りなしでその場はとりあえず収まり、

ともかく西郷は久光公の先乗りとしてシブシブ鹿児島を出発したんだ。

ところが下関まできたときに、薩摩兵を幕府討伐と勘ちがいする志士たちのうごきを感じた西郷は、一刻の猶予もないと判断し、久光公の到着を待たずに単独で上洛しちゃたんだ。

もし久光公をまって上洛したなら、反乱軍として討たれていたかもしれないんだ。

3-1.h3.徳之島から沖永良部島(おきのえらぶじま)へ

しかし久光公は到着をまたなかった西郷に激怒し、ふたたび「島流し」の刑を言い渡した。

こんどは奄美大島から更に南方30㎞の場所にある徳之島(とくのしま)への流罪となってしまった。

そして3ヶ月後これでは刑が軽すぎるとして徳之島からさらに南30㎞にある沖永良部島(おきのえらぶじま)へ移したんだ。

この2回目の島流しは、前回とちがいきびしい監視がつく牢(ろう)にいれられ、死罪につぐ重罪人あつかいで、当然1回目にはあった扶持米もなかったん

牢獄(牢獄)生活〜2度目の奇跡の復活

その牢はかんたんな屋根を乗せただけの2坪くらいの狭いところで、食事は出るものの、雨風がちょくせつ吹き込むような最悪の環境だったんだ。

そんななかで西郷は一日中じっとすわって考え込む毎日。

そのうち牢番のひとり薩摩藩士の土持政照(つちもち まさてる)は、西郷の崇高な人格とやさしさにふれて、尊敬の気持ちを高めていったんだ。

そしてひどい環境を改善しようと、私財をなげうって牢屋の新築を行い、西郷も外を歩き回ることができるようにしてくれたんだ。

そのころ天下の情勢は外国からの脅威(きょうい)もあり揺れに揺れていた。

薩摩だけでなく日本が危ない、こんなとき西郷がいてくれたらという機運が高まり、有力藩士十数名が集まり、島津久光に西郷の赦免を直訴したんだ。

藩士の死を覚悟したせっとくに久光もついに折れて島流しから解放した。こうして西郷隆盛は政治の表舞台に2度目の奇跡の復活をしたんだね。

まとめ

政治的が迷路にはまり込むたびに「西郷頼み」。歴史の中でこういう人物が現れるのは、ひじょうにめずらしいこと。

でもこんなことは仕組んで出来ることじゃない。西郷隆盛のカリスマ性、人望、情に厚い性格、まさに幕末という激動
の時代が生んだヒーローなんだね

ロンメル元帥「将軍」の生涯とは?名言や死因まで辿る

ロンメル元帥「将軍」とは第一次世界大戦、第二次世界大戦と2つの戦争をとおして活躍したドイツの軍人。

第二次世界大戦はみなさんも知っているように、

ヨーロッパ・アフリカ地域ではドイツ・イタリヤ同盟軍がイギリスやフランスの欧州連合軍とたたかい、

東南アジア・太平洋では日本とアメリカがたたかった世界規模の戦争だよね。

ロンメル将軍はヒトラー提督ひきいるナチスドイツ軍のもと、功績をみとめられ軍の最高の位の「元帥」にまでのぼりつめた優秀な軍人なんだ。

ここではその奇抜な戦略・エピソード・名言をたどって、人間エルヴィン・ロンメルを浮き彫りにしてみたいとおもうんだ。

生い立ち〜軍人への道

エルヴィン・ロンメルは1891年にドイツの南部、ウルム郊外に生まれる。

父も祖父も数学の先生をしている家系で、およそ軍とは関係のない中産階級のうまれ。

そして若い頃のロンメルは、飛行機にものすごく熱中し、航空隊に入隊したいとおもうようになった。

でも父親に反対されしぶしぶ陸軍にはいることなったんだ。

そのころの飛行機は複葉機が主流で、スピードもおそく、すぐ落っこちる不安定なものだったから父が反対するのも無理ないのかもね。

しかしその頃に、点と線の地上でたたかうそれまでの平面的な戦術に、空からの3次元の攻撃がくわわれば、戦争のかたちが一変すると予測したロンメルの先見はスゴイ。

また飛行機はこれからぜったい進化すると信じていたんだね。

まさにその予測どおりに第二次大戦の後半に航空力、制空権をにぎったものが勝利したんだ。

もしロンメルが航空隊にはいっていたなら、勝利の行方は変っていたかもしれないね。

第一次世界大戦のロンメル

第一次世界大戦では、まず歩兵部隊の士官として西部戦線に、次に山岳歩兵部隊を率いてルーマニア戦線、イタリア戦線についたんだ。

そこでロンメルは戦術家としての才能をメキメキとはっきしすることになる。

つぎつぎと戦果をあげ、級鉄十字章、最高位のプール・ル・メリット勲章を受章して中尉にまで昇進したんだ。

大戦がおわってもドイツ軍に残ったロンメルは、ドレスデン歩兵学校(1929年-1933年)、ポツダム歩兵学校(1935年-1938年)の教官をつとめた。

回想録「歩兵は攻撃する」

この本はロンメルが第一次大戦をふりかえり、その場の記録・考察を、彼のするどい視線で臨場感ある簡潔な文章で書いた回顧録。

そのなかには「戦場というのは準備と運という相反するふたつの要素が決定的に作用する」とか、

塹壕(ざんごう)の重要性や、フットワークの軽さや勇気の重要なども書かれていて、ドイツ国内で50万部をうりあげるベストセラーになったんだ。

その本を絶賛したひとりに、ドイツ帝国総統で絶大な権力をにぎっていたヒトラーがいたんだ。

これがロンメルを本格的に評価し、第二次大戦で重要な作戦をまかせ、元帥にまでひきあげるキッカケになったんだ。

しかしヒトラーに信頼され重宝されたロンメルだけど、

ロンメル自信はナチの人種差別(ユダヤ人虐待)や捕虜の扱い方などには反対で、さいごまでナチには入党しなかったんだ。

総督ヒトラーはぜったいで、だれひとり逆らえなっかたのに、ひとり反発したのがロンメルなんだよ。

それがもとで最後にはヒトラーの反感をかい死に追い込まれてしまったんだ。

砂漠の狐(きつね)

狐(きつね)ってどうぶつは、ひとをダマすってたとえられるよね。

北アフリカの戦線で「砂漠の狐」とよばれて敵に恐れられたロンメル将軍。

まるで砂漠の中にキツネがいるような奇策で敵をほんろうしたんだ。

イギリスの首相チャーチルが「敵の指揮官ロンメルは、きわめて勇敢な、きわめて巧みな敵将だ。戦争という行為は別として偉大な人物だ。…悔しいが!」っておもわず言ったんだって。

敵からも尊敬されたんだね。物資不足の少い兵力で戦車隊をひきい、数倍の兵力のイギリス軍をげきはし続けたロンメル。

そんなキツネのエピソード(奇策)をこれから話してみよう。

リビア砂漠の戦い

リビアは地中海に面した北アフリカの地域で、それまでドイツの同盟国のイタリア軍が駐留していたんだけど、

圧倒的な戦力を持つイギリス軍がイタリア軍をけちらして占領してしまったんだ。

イタリアにたすけを求められたドイツ・ヒトラーは、ロンメル将軍にその指揮を命じたんだ。

戦車の数でも兵士の数でもイギリス軍にくらべものにならない少数のドイツ軍、ましてや補給のこんなんな砂漠のなかの過酷なたたかいだ。

そこでロンメルはイチカバチかの戦略を考えたんだ。

最前列だけ手持ちの少ない本物の戦車をならべ、うしろのほうは自動車に板をかぶせたニセものの戦車、

そしてニセ戦車にはホウキや鎖(くさり)をひきずらせて、砂煙りをたたせて、少数のドイツ軍を大戦車隊のようにおもわせたんだ。

これをみてパニックをおこしたイギリス軍は、2ヶ月かけてやっと手に入れたリビアの陣地を放棄して逃げちゃったんだ。

こうしてロンメル軍は戦わずに、あっというまにリビアを奪回したんだよ。

奇策の伏線

じつはイギリス軍がふるえあがって逃げたわけはもうひとつあるんだ。

ドイツ軍が事前に行なった軍事パレードをみたイギリスのスパイが「ロンメル部隊に大戦車隊あり」と本国に報告していたんだ。

スパイが見たパレードは、じつは同じ戦車が何度もグルグル会場をまわって行進していたんだ。つまりパレードそのものがロンメルの罠だったんだ。

イギリスのスパイはすっかり狐にダマされたってわけさ。この戦法は日本の戦国時代の名将・織田信長の作戦とよくにてるんだ。

信長はやはり戦の事前に、信長軍は3千の軍勢で何万人もの兵を虐殺したっていうウワサをまわりの敵国にばらまいたんだ。

そうやって少ない兵力で大軍の敵を打ち負かしてきたんだ。

もちろんロンメルが信長を知ってるはずはない。

名将といわれるひとは事前の準備、とくに情報の伏線が作戦の勝ち負けをさゆうすることを、天才的直感でわかっていたんだね。

英雄の証明(条件)

ロンメル将軍はまぎれもない英雄。でも英雄はひとりで成し遂げられるものじゃないんだ。

だってその戦果や功績を作ったのは、ともに戦った兵士たちなんだよ。

不安を抱かせない、ついていって損はない、そんなカリスマ性と自分たちのことを理解して、いたわってくれる人間性、信頼、それが兵士たちの士気を高める原動力。

つまり英雄とは士気を高める能力・人望のあるひとってことなんだ。

力や権力でひとを従わせるのは、いつか必ずヒトラーのように崩壊する(どこかの国のアメフトにもそんなのがあったような?)。

そんな英雄の証明を感じさせるロンメル将軍のエピソードや名言をこれからしょうかいしよう。

「司令官たるもの前線で指揮をとれ」

現代の会社でもありがちなこと。たとえば部長命令のプロジェクトで、あなたのいる課にその仕事がまわってきた。

ところが課長は「おまえたちで考えてやってみろ!」っていうだけで何の指示も出さない。

最初はじぶんたちに能力をつけさせるために、わざと指示を出さないんだとおもい、なかま同士で工夫しあって努力する。

良い結果がでたときには、課長はさもじぶんの功績のように部長に報告する。

しかし良い結果がでないときは「なにをやってるんだ!」と怒鳴るだけで次の指示もださない。

そりゃそうだよね、課長はじっさいにはなにもしてないんだから失敗の原因も問題点もわかるはずがない。

的確な判断ができないから指示がだせない、そのうちに部下はやるきをなくしてしまうんだ。

ところがロンメル将軍は戦争という命のかかった状況にいるんだよ。前線にたつとはまっさきに攻撃される場所だよ。

そんな危険なところにいて指揮をとる司令官をみれば、兵士たちはその勇気にふるいたち士気が上がるんだ。

またロンメルは「軍人にとって最も不安なのは、敗北の予感に見舞われる時」とも言っているんだ。

その予感を最もつよく兵士が感じるのは、司令官が弱っているとき。

だから指揮官は弱みをぜったい部下に見せてはならない、またその印象をあたえないよう努力しなきゃダメだっていっているんだ。

「死んだヒトラーは生きているヒトラー以上に危険だ」

これもロンメルが言った名言で、もっとも意味深いことばだとおもうんだ。

ヒトラーはみなさんがご存知のように、ナチスドイツの最強の指導者、ドイツ国民のすべてをそのカリスマ性で引きつけた人物。

でもロンメルは生きてる間より死んだヒトラーのほうが危険だっていうんだ、どういうこと?

もちろんロンメルのほうが先きに死んでいるから、ヒトラーが生きているうちにいった言葉だ。

ロンメルが言いたかったのは、いっぱん的に英雄とか偉大な人物とは、その死後に優秀な面がさらに誇張され神格化してしまうもの。

ヒトラーも死後にそのカリスマ性や強大さが誇張され英雄化される。

そのかげで彼がおこなった非人道的な行為(人種差別、捕虜の大虐殺)が、時間とともに忘れられてしまうのが最も怖いことだと言っているんだ。

つまりロンメルは力や権力でひとを動かすのではなく、みずからが兵士たちと共にたたかい勝利にみちびく者が真の英雄だといっているんだね。

ロンメルの最期

ノルマンディーの戦況で、いよいよ連合軍の総反撃(史上最大の作戦といわれる)が開始したとき、

すでに勝ち目はないと予測したロンメルは、無駄な戦死者をだしたくないとのおもいでヒトラーに撤退を進言したんだ。

するとヒトラーは「勝利か死か。それ以外に道はない」

それにたいしてロンメルは「総統は犯罪者だ。祖国が壊滅するまで戦うつもりか」といい放ち、独断でドイツ軍を退却させてしまったんだ。

これに腹を立てたヒトラーは、戦争終結の報告にもどったロンメルに「元帥、出て行きたまえ!」とどなって追い払ったっていうんだ。

そのごヒトラー暗殺未遂事件がおきた。運よくヒトラーの命は助かったが、その計画の首謀者や関与したものたちは次々と死刑になったんだ。

それから3ヶ月後、戦闘で負傷して自宅療養していたロンメルのところへ、

ヒトラーの使者が毒薬を持参して「あなたに総統暗殺未遂の疑いがかかりました。この毒を飲むなら家族の命は保証しましょう」と伝えにきたんだ。

もちろんロンメルは無実、でっちあげの嫌疑。

ヒトラーの性格をよく知っているロンメルは、ここで反発すれば家族だけじゃなく、もっと多くのひとに被害がおよぶとおもい、すなおに受け入れるんだ。

そして家族に別れを告げ、自宅の裏の林に入り、木々の間で毒をあおいで自殺したんだ。

まとめ

ロンメル元帥「将軍」は自国民だけじゃなく、敵からも愛され尊敬される英雄。

天才的な戦術や予測で戦果をあげるだけじゃなく、勇気をもって立ち向かい、さらに部下や兵士、家族を思いやるやさしさをあわせもった人間なんだ。

これが真の英雄の姿だとおもうんだ。さいごにロンメルの残した名言で終りにしたいとおもう。

「“なんだかんだ言っても軍人は軍人だ”、そんなことは百も承知している。ただ、僕はドイツを吹き荒れたあの狂気の中で、良心のかけらを見出したことが嬉しいのだ。」

西郷隆盛 最後の戦い「西南戦争」にいたるまでを詳しく解説するよ

西郷隆盛(さいごうたかもり)といえば薩摩(いまの鹿児島県)藩士で、坂本龍馬(さかもとりょうま)とならび良くドラマなどにも登場する幕末のヒーロー。

当時あまり仲のよくなかった長州藩(いまの山口県)と薩摩藩とで同盟を結び、その薩長連合軍で江戸幕府をたおし明治維新をなしとげた中心的人物だよね。

新明治政府でも重要なはたらきをした西郷だけど、その新政府軍と戦うことになり最後には自決してしまったんだ。

どうして最後の戦い「西南戦争」をしなければならなかったのか、そこにいたるまでを詳しく話してみようと思う。

薩長同盟〜明治維新

江戸幕府は長州藩(幕府を倒そうとしていた)を倒すことで、世間に力をしめそうと薩摩藩に長州討伐を命じた。

それがもとで長州藩は薩摩藩を目のかたきにして憎んでいたんだ。

幕府にしぶしぶ従ったけど、長州とは戦いたくない、じつは倒したいのは幕府、でも自分たちだけでは力不足と思っていたんだ。

いっぽう長州は朝廷にきらわれて武器の購入を禁止されていたんだ。両藩とも幕府はたおしたいけど、おたがいに悩みをもっていたんだ。

そこで坂本龍馬が西郷隆盛(薩摩側)と木戸 孝允(きどたかよし・長州側)のあいだにはいって、互いにウインウインの薩長同盟が結ばれたんだ。

大政奉還(たいせいほうかん)

こうして薩摩藩と長州藩が協力した連合軍が、近代戦術をくしして幕府軍を追いつめ、

ついに慶応3年(1867)さいごの将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が政権を天皇に返すことになった。

これが世にいう大政奉還(たいせいほうかん)なんだ。

そのご江戸総攻撃も想定されたんだけど、西郷隆盛と勝海舟(かつ・かいしゅう)の話し合いで無血開城を見事に果たしたんだ。

これにより江戸(東京)が戦火にまきこまれることなく、鎌倉時代より約700年つづいた武家政治がおわり、天皇を主君とする新しい明治政府が誕生したんだ。

故郷・鹿児島にもどる決意

そのご新政府で参議や陸軍大将を任じられ、国の中枢として働いたんだけど、

対朝鮮に関する征韓論の論争で意見が対立し新政府をやめてしまうんだ。

論争にやぶれたのが一因ではあるけど、新政府の要人のふはいにガマンができなかったんだとおもう。

「維新創業の大事なときなのに、政府の要職に就く薩長人の中には、すでに住まいや衣服を華美にしたり、妾をかこったり、私的な蓄財に走っている。

義戦であったはずの戦もただ薩摩や長州の利を貪るための私戦になってしまい、世間に対しても戦死者に対しても申し訳ない。」

と涙ぐんだというんだ。こうして西郷は新政府をやめて、故郷・鹿児島にもどってしまったんだ。

私学校創設のもくてき

このとき政府・軍に仕えていた多くの鹿児島県士族も明治政府に失望し、西郷にしたがって鹿児島に帰郷したんだ。

そんな青年たちのためにも、また日本の将来のため、新しい時代に適応する教育が必要と「私学校」を設立したんだ。

当時の世界はイギリスはすでにインドや中国の一部を植民地化していたし、米国はペリーの来航等で日本に通商を求めてきた時代。

日本もいつ欧米諸国の脅威にさらされるか分からなかったんだ。「

私学校」のもくてきは、新政府への不満をいだく青年の目を外に向けさせ反乱をふせぐこと、

また国家が外国からの脅威などの非常時やあらゆる事態に即応できる人材を育成するためだったんだ。

政府軍弾薬庫襲撃事件

政府の改革により全国各地では士族の反乱や農民一揆等がおきていたけど、鹿児島だけは平静を保っていたんだ。

それはこの私学校幹部の努力のおかげなんだ。明治政府も鹿児島は西郷がいるから大丈夫とおもっていたんだ。

ところが私学校は県内に分校が130校にもなり生徒の数も1万人をこえるようになると、初心の意図がまったんまで伝わらなくなり、

教育機関というよりは政治団体のようになってしまったんだ。

そうなると政府にとっては不気味な存在になり、警戒感を強めて様々な圧力と挑発を繰り返し、ついにスパイを送り込んできたんだ。

私学校士族らが捕らえた政府スパイから「西郷暗殺」の情報を知って腹を立て、ついに政府軍弾薬庫を襲撃してしまった。

こうして西郷たちの努力は水の泡となっちゃったんだ。

西南戦争はじまる

こうして維新のヒーロー西郷隆盛は反逆者にされちまった。

弾薬庫襲撃者を政府に引き渡し、私学校を解散すれば、事件はおさまる。

だけどそんな仲間を売り渡すような真似はできない、かえって火に油をそそぐことになるかもしれない。

しかし体制の整わない士族の武装・出兵は、軍術のことをよく知っている西郷にはその無謀さは充分はわかっている。

しかし新政府の政策のなかでは誇りをもって士族は生きていけないのも充分にわかる。

その新政策をつくることに加担した自分をも、なお慕ってくれる仲間を無視はできない。

情にあつい西郷はここで苦渋の決断をするんだ。

「政府に意見するために兵をあげて上京する。途中で邪魔をするやつは容赦しない」

と私学校士族を中心とする1万3千の西郷軍を挙兵して戦いに挑んだのが西南戦争なんだ。

たとえ“負け戦”であっても士族たちの思いのままにさせ、それに殉ずる事。

時勢より情によって士族とともに生涯を閉じることを西郷は決意したんだと思う。

最後の戦いの地

しかし、西郷軍は熊本鎮台(熊本城)を落とことができず、主力は北上して政府軍と田原坂で激戦のうえ負けてしまった。

その後も劣勢がつづき、日向(ひうが=宮崎県)を敗走したのちに軍を解散したんだ。

それでも最後まで従いたいとする372名とともに九州山地を越えて鹿児島にはいり、最後の戦いの地、城山にこもったんだ。

そして山県を大将とする5万の政府軍が城山のまわりを包囲した。

これほどの戦力差は日本の戦史のなかでも珍しいくらい、西郷軍の負けはきまっていた。

政府軍は明日のあさ総攻撃をかけるから、本日午後5じまでに西郷が会いにくれば話し合いに応じるといったんだが、西郷は「回答の要なし」といい、その夜訣別のの宴をひらいたんだ。

運命の日〜最後の言葉

翌朝4時、3発の号砲とともに政府軍が銃を乱射し一斉に城山を駆け登り、各所の堡塁はつぎつぎに破られた。

のこった40名ほどが全員で自決しようと覚悟し岩崎谷の堡塁へ向かう途中、西郷の脇腹と股に銃弾があたり倒れてしまったんだ。

そこで西郷はいっしょにいた別府晋介に向かって「晋どん、もうここでよかろ」と伝えると、正座したんだ。

そして「ごめんなったもんし!」(お許し下さい)の掛け声とともに、別府の太刀が一閃して西郷の首は落ちた。

これが幕末〜明治維新のヒーロー西郷隆盛のさいごのことばなんだ。

まとめ

さいごの言葉「もうここでよかろ」の中に、西郷隆盛の人物像が凝縮されているような気がする。

西郷はカリスマ性も力も持っていたひと。だけどじぶんの意見を押しとおして人を動かすタイプじゃない。

「西郷どんが言うなら何処までもついていきます」とひとはいうけど、

「みなが言うならオレはついていくよ」ってのが西郷の本音のような気がする。

いまでも多くのひとから親しまれるのは、人情味あふれる西郷隆盛があってこそなんだね

マルクスの資本論を0から学ぶ!初学者向けにわかりやすく要約したよ!

はじめに

マルクスの「資本論」は、最近のあるニュースとの深い関係あります。それは「格差社会」・「長時間労働」・「ブラック企業」等々です。

「資本論」は、150年前に発刊されたのですが、今、静かによみがえり、多くの人に読まれています。

それは、ニュースになっている「格差社会」・「長時間労働」・「ブラック企業」等の原因を想定し、告知してる事にあります。

「資本論」は「資本主義」を何十年もの間研究し、その究極の結果、現在、発生している「困っている事」予想され、当たっているのです。

ここに、「資本論」を簡単し、やさしく解説しますね。

「資本論」が世に出て有名になったいきさつとは

物を作り、売って、買って、生活しているサイクルを経済といいます。この経済のしくみを最初に深く研究された本が「資本論」です。

 

研究された時代は、不景気の時代で、働いている多くの方が、仕事がなく、貧困であえいでいる状況が切っ掛けになってといわれています。

どうしてそのような状態が起こるの?どうして、何回もひんぱんに不景気が発生する?なぜ、その度に働いている人が生活に困るの?が動機です。

その原因を、なぜなぜ追求し、分析し、研究され解消できる考え方を本にまとめ、出版されたのです。

不景気の世の中の後押しもあり、誰もが理想社会、「ユートピア」では、と賛同され、爆発的に受け入れられたのです。

 

有名な「資本論」著作者「マルクス」とは

「資本論」作者の名は、カール・マルクスといわれる方で4つ肩書で紹介されいます。「ドイツの経済学者,哲学者,革命指導者,科学的社会主義の創始者。

ボン大学,ベルリン大学で法律,哲学を学び,1841年イェナ大学で博士号を取得。」(https://kotobank.jp/word/マルクス-137532辞典)

誕生は、マルクスは、1818年5月5日にドイツ北部やポーランド北部のあたりにあった王国、プロイセンに生まれです。

学校には通わず、弁護士のお父さんの教育を受けたられたのです。小さい頃から非常に賢く、聡明であったとの事です。

研究された、「資本論」の簡単、説明!

「資本論」は、これから、世の中に出て行く若者は勿論、経済の仕事を目指していない方も含め、全世界中の多く方の教科書として読まれています。

「資本論」は、単に、経済の本ではなく、世の中の「しくみはどうなっている」とか「どのようなしくみであるべきか」を50数年と続けられた内容です。

その研究成果に詰め込まれた内容は、万民が教そわされる多くの事の内容にあります。

「資本論」は、世界遺産に指定さ、全世界の学校の教科書に取り上げられています。また、多く国で翻訳され、様々に解説されいます。

「資本論」の要旨を簡単まとめ

「資本論」のマルクスが最初に考えた事は、「なぜ、どうして、こんな状態になった?どうしてこうなってしまう?」にあります。

その理由は、「資本主義経済では、物の生産と売れる事が低下することで、多くの人の働く場所がなくなる。

これは、世の中の資本主義経済のサイクルの廻り方に問題があるためだ!」と結果が出されたのです。

さらに、最終的に「資本主義経済は、崩壊し、労働者の世の中になる」と結論をだし。

「問題の多い資本主義社会はいずれ崩壊し、必然的に社会主義へと転化する。」と、提唱し、研究した理論をマルクスが本で発信したのです。

「資本論」の「資本主義経済」について、4つにまとめられます。

・お金を持っている階層は、労働者を雇い、物を作り、売りさばいて、儲けようとする。

・その階層は、いかなる方法で働かせれば自分が儲かるを考え出し、労働者を働かせ儲けようとする。

・労働者は、労働の辛さが高まるに対し、得られるお金の少なさに、不満がたまる。

・不満の究極は、いつの日か爆発し、必然的にしくみを変える革命となり、資本主義経済は滅亡する。警告し、予告したのです。

「資本論」と今のしくみとの関りとは?

世界のしくみを冷静に見た場合、大なり小なりさまざまです。ですが、大枠的には、2つに分けられます。自由主義と独裁主義です。

「資本論」では、資本主義経済の大金持ちの「資産家」は崩壊し、「労働者」に代わるとなっています。

現在、「労働者」のしくみに変わった独裁主義の国の「労働者」の生活は潤ったのでしょうか?

日本は、自由主義です。どうでしょう。問題はかかえていますが、独裁主義のような異常な報道は入っていません。

独裁主義では、「言論の自由がない」「権利が以上に強く、権利に盲目的に服従しがわいけない」といわれいます。

国が定めた範囲の仕事に従わねばならず、提案や改善の努力は、報われないしくみになっているためです。

「資本論」理想のしくみの事といわれいます。なぜなら、「資本論」は「物」に徹底的にこだわったしくみで、「自由」な発想が否定されているからではないでしょうか。

「資本主義を壊した後の矛盾」

マルクスが、予言した「資本論」の資本主義経済崩壊の予言に賛同した国は革命が起りるのが答えになりました。

現在もその国は北朝鮮や中国などあります。ですが、人の生活は、物質のみでは満たされませんよね?

理由は、彼らには言論の自由がないからです

心に「自由」がなければ「砂漠」のようにさくばくとした世の中になります、、

人は「心にゆとり」と「自由な発想」が不可欠です。彼らにはそれがない、、

マルクスが理想とした革命はうまくいっていないんですね、!

まとめ

マルクス「資本論」の解説、如何でしたでしょうか。「資本論」の片端の一隅ですが、現在との関りが密接です。

自由主義社会での資本家は、「お金」を持った上層部で構成されいます。庶民=労働者は、「資本論」の予言が当たり、「格差問題」や「ブラック企業」等がり、共有できる部分があります。

「資本論」の予言を信じ、革命を起こした国は、「自由」を求めて崩壊しています。そうでない国には「言論の自由」が無く、「権利」おびえた暮しです。

「資本論」を読むことによって、世の中の見方や矛盾について冷静に考えられます。自分の立ち位置が客観的に見る事ができるのではないでしょうか。

 

豊臣秀吉の天下統一から千利休との確執まで詳しく解説するよ

今からざっと500年前、それまで日本を治めていた足利氏の室町幕府が崩壊(ほうかい)した。

それから全国各地の戦国大名が自分の領土を広げようとあちこちで戦いを起こしはじめ、日本中がメチャクチャに乱れた戦国時代になったんだ。

そんな中いまこそ天下統一のチャンスと、彗星(すいせい)のように現れた武将が織田信長。

その主君の死んだあと意志をうけついで天下統一をなしとげたのが豊臣秀吉だよね。

その天下統一へのプロセスやエピソードはたくさん語られているので、そこはチョット遠慮して、

ここでは天下を治めるための政策や心境の変化、秀吉におおきく影響を与えた千利休(茶の道)などにおもきをおいて、

独断と偏見をまじえてはなしてみたいとおもうんだ。

天下平定のための政策

低い身分のひとが大出世して天下をとると、傲慢(ごうまん)な強権(きょうけん)政治になりがちなのは、

中国の秦の始皇帝(しんのしこうてい)や明の洪武帝(みんのこうぶてい)のように歴史が証明しているんだ。

それじゃあ、おなじような境遇(きょうぐう)から天下人となった秀吉はどんな政治をしたんだろう。

刀狩(かたなかり)令

これは百姓一揆(いっき)などで無益な殺しあいをなくすためと、農民と武士の身分をわけることを目的とした政令で3つの条文からなっているんだ。

第1条:農民が刀や脇差、弓、槍、鉄砲などの武器を持つことを固く禁じる。それにそむいたり、年貢をおこたったら罰する。

第2条:取り上げた武器は溶かして、大仏をつくる釘などにする。そうすれば、農民はあの世で救われる。

第3条:農民は農具だけを持ち農業に励めば、子孫代々無事に暮らすことができる。農民を愛するがゆえに武器を取り上げるのだ。

・・・・おもてむきは農民を無益な争いにまきこまず、農民を守るためだといってるけど、真の狙いはほかにあるような気がする。

第2条は秀吉のアイデアがひかるフェイク。じじつ刀の鉄は釘にはむかない、大仏の建造に使われたという史実はどこに

もないんだ。

つまり刀をうまく取り上げるための宣伝文句なんだね。

身分等政令

この政令は、のちの江戸時代・徳川の士農工商のもとになったともいわれている。

武士が町人や商人や農民になるのを禁じ、農民が商人や職人になることを禁止したんだ。

これは朝鮮出兵に向けて、武士の確保そして年貢をおさめる百姓の人員を確保することが目的とされている。

身分を変えちゃいけないっていうけど、えーっだって秀吉は農民から出世して武士のトップ関白になったんだよ、

チョット自分勝手でわがままなんじゃない?。

自分のような成り上がりの出世は、自分だけにしたかったんじゃないのかな。

刀狩令も身分等政令も、良い意味でいえば、世を安定させる賢い策。

悪い意味でいえば、じぶんの地位を守るための強引な策といえるんじゃないかな。

太閤検地(たいこうけんち)

これは全国的に農地をしらべる事業。でもこの政策はまえの2つとまったくちがって、

企画やアイデア、方法には秀吉の先をみる能力や聡明(そうめい)さがちりばめられている画期的なことなんだ。

まず長さの単位を6尺3寸を1間(けん=約191cm)とし、面積(めんせき)は1間4方でかこむ広さを1歩(ぶ=約3.65㎡)と決めたんだ。

これによって、それまでいいかげんだった田畑の面積が、正確に計れるようになったんだ。

現在でも日本家屋は尺や間をもとにたてられているんだ(いまの1間=約181.8cm)。

いまごはんを炊くとき、計量カップで米をはかるよね。当時は木でできた枡(ます)をつかっていたんだ。

ところがこの枡の大きさがバラバラだった、秀吉は米をはかるときは京枡に一本化し、升とか石という量の単位も統一したんだ。

これにより1つの田んぼから何石の米がとれ、年貢がどれだけ納められるかがわかるようになったんだ。

50万石、100万石の大名という領地のあらわしかたもこの米の量なんだ。

現代はメートル法で統一されている、ものを計るには基準の単位が大切って発想は、この秀吉の太閤検地からはじまったんだよ。

傲慢(ごうまん)政治と千利休(せんのりきゅう)

「成金(なりきん)」って言葉がある。

きゅうに大金持ちになって権力を手にすると、性格が変わったみたいに贅沢をしたり、わがままになるってことだよね。

でもこれってお金が性格をかえるんじゃなく、人間がもともと持ってる本能のようなものだと思うんだ。

目標に向かっているときは攻撃的に努力をしたけど、いざ目的をたっせいすると守りの姿勢で消極的になっちゃう。

でも消極的でおくびょうと思われたくないから、かえって逆に金と権力で「強いんだ」とカラ威張りするんだ。

秀吉も例にもれず、贅沢ざんまいと我がままし放題になっちゃた。

それに待ったをかけたのが千利休(せんのりきゅう)なんだ。

茶人・千利休とは

千利休はみなさんも知ってるように日本の茶道の基礎をつくったひと。

「わびさび」をおもんじる茶道と贅沢ざんまいの秀吉とでは水と油のようだけどどうして?

お茶は最初っから「わびさび」ではなく、「茶の湯」といって大名たちの遊びのひとつ、豪華な茶会をひらくのは力を見せつける道具だったんだ。

そこで秀吉も「茶の湯」に力を入れ、お茶の世界でリーダー的そんざいだった利休を大切にしたんだ。

利休も聡明で一途なひと、ものおじせずに意見をズバッというひとだった。

秀吉はムッとしても利休の言葉は的をえてるので一目おいていた。

「秀吉に意見できるのは利休しかいない」といわれるくらいで、たびたび政治的なアドバイスも求めていたらしい。

「茶の湯」から「茶の道」〜利休の切腹

しかし利休はお茶を政治や権力の道具にしてはいけないと考えるようになり、

たんなる遊びじゃなく、もっと純粋に芸術性をたかめ「茶の湯」から、質素なわびさびの心をもつ「茶の道」へと変っていった。

そして秀吉のエスカレートする贅沢や政治を戒めるようになったんだ。

じぶんの意見に逆らってばかりいる利休が、だんだんけむたくなってきた秀吉は、

ちょとしたことでインネンをつけ、ついに切腹をいいわたした。

本音は謝ればゆるすつもりだったけど、一途な利休は秀吉への戒めもふくめ、あえて切腹をうけいれたん

まとめ

豊臣秀吉がせっかくつかんだ天下だけど、その時代は長くつづかなかった。

20年もしないうちに徳川家康に滅ぼされてしまう。中国の秦の始皇帝や明の洪武帝の時代とおなじように、

傲慢(ごうまん)な政治はいっときうまくいっても、すぐにほころびがでて崩壊してしまうんだ。

民衆を権力でむりにおさえこむ政治は、かならず反発をよび短命におわるってことだね(どこかの国のどこかのスポーツ監督のように)

織田信長の有名な名言やエピソード〜 その意味をわかりやすく解説するよ!

戦国の異端児(いたんじ)、天下統一まであともう一歩のところで命を落とした名将・織田信長。

有名な名言やエピソードのなかにある、戦国の世から、現代の世への、心にひびくメッセージや奥深い意味を独断と偏見をまじえて解説してみようとおもうんだ。

生い立ちのエピソード

当時の武将の子は産んだ母親ではなく、乳母や養育係が育てるのが通例だった。

現代でも天皇家は最近まで養育係が子育てをしてたんだよ。

そのしきたりを初めて破ったのはつい最近のこと、平成天皇の皇后、美智子さまなんだよ。ちょっとはなしがそれちゃったね。

織田信長は尾張の国(いまの愛知県)の主、織田信秀(おだのぶひで)の嫡男(かとくを継ぐ長男)として生まれ、幼名を吉法師(きっぽうし)っていうんだ。

その吉法師(きっぽうし)も生まれるとすぐご多分にもれず乳母のもとで養育されることになった。

ところがものすごく疳(かん)の強い子で乳母の乳首をかみ破っちゃうんだって。それで何人もの乳母が交替したと伝わっているんだ。

生まれながらにして気性が激しかったのか、それとも産んだ母親とちがう乳を与えられたことへの反発なのかもしれないね。

そのくらい乳児のころから感がするどかったのかも。

ところが池田恒利(つねとし)の妻(養徳院ようとくいん)が乳母になったとたん、不思議なことにその乳首だけはかみ破らなかったっていうんだ。

きっと産みの母と似たやすらぎを感じ取ったのかも知れないね。

「主君が子供ならあなどるのか?

幼少のころ庭先で遊んでいると小さなへびがでてきた。

吉法師(信長)がこれをつかんで近くにいた家来のものに「このようなことを勇というのか?」ときくと、

「小蛇など恐れるに足らぬものです」と家来がこたえたんだ。

すると吉法師は「蛇の毒は大小によらぬ。小さいからと恐れぬのなら、もし主が幼少なら、うぬらはその主をあなどるのか?」と言い返したんだ。

これは吉法師(信長)は「小さいへびを手でつかまえるようなことを勇気のあることっていうの?」ってきいたんだね。

それにたいして家来が「小さなへびなんかは恐れる代物じゃありません」ってこたえたんだ。

これにムカッと来た吉法師は「へびの毒はその大小ではわからない、小さいからといってバカにするのは、主君が子どもだからとバカにするのと同じじゃないか!」っていいかえしたんだ。

つまり人の価値は幼いとか年を重ねたとかで計れるものじゃない、幼いからといって軽視すると、大きなものを見損なうよっていっているんだ。

この吉法師のエピソードは将来の大物の片鱗(へんりん)を感じさせる名言だね。

武将信長の名言

父・信秀の死後、織田の家督をついだ信長は、その才能と斬新な戦略でつぎつぎと強敵をなぎ倒していった。

そんな戦乱の中の信長のエピソードや名言をいくつかあげてみよう。

「臆病者の目には、敵は常に大軍に見える」

臆病者の目とは、おびえた気持ちで敵を見れば、少人数の敵でも大軍に見えてしまう。

臆病者の目になった時点で、すでに戦の勝負は決まってしまうって言ってるんだ。

これはおびえずに勇気をもって目のまえの敵をよ〜く見ろ、そうすれば敵は大軍じゃないことがわかるから、

と戦う兵士たちの士気を高めようとした言葉。

また信長はこの心理を逆手に取って、

信長軍は前の戦いで2万3万(実際には5千でも)の敵を虐殺したっていう誇張したうわさを先きに流し、

敵を臆病者の目にしてしまう戦略で勝ち抜いたんだ。

この名言は現在の社会でも同じことがいえるんだ。

たとえばアスリートがよく「敵は己の中にある」っていうよね。この己の中の敵とは臆病者の目とおなじ、プレッシャーにまけてはダメだってことだよね。

会社の仕事でも同じ、しっぱいをおそれる臆病者の目になっちゃダメ、目のまえの仕事が大軍に見えてしまうってことなんだ。

「人城を頼らば城人を捨せん」

このことばをそのまま解釈すれば「人が城を頼ったとき、落城する」といった意味。

さらにかみくだけば、城が人を守るのではなく、人が城を守る、

つまり城をまもろうとして戦うとき、この城は2重3重に堀や、要塞を築いてあるからそうカンタンには落ちない。などと城の堅固さに頼ったらまけちゃうってこと。

まもって勝利するのは、そのなかで戦う人の力次第だっていってるんだ。

いまの社会におきかえてみるよ。

大企業といわれる会社は、創業者と社員とがいっしょうけんめい努力してすぐれた商品や企画を開発してきたから大企業という城を築けたんだ。

ところが大企業という名前にあぐらをかいて開発や企業努力をおこたればつぶれてしまう。

つまり大企業という城にたよって、働く人の努力が薄れてしまえば守れずに落城してしまうってことなんだ。

またよくあるパターンだけど、自分の実績を大企業という城にまもられて出来たことなのに、自分の力と勘違いしている人がいる。

そんなひとが自分の力を試そうと会社を辞め独立したけど、ちっとも成果が上がらずポシャってしまうパターン。

これもじぶんでは気づかずに城を勘違いして頼って落城してしまったんだね。

主君信長の名言

天下をとろうと野望をもち戦い続ける織田信長。

ひとのうえにたつ者の持つべき資質やその信念を語った名言があるんだ。そのいくつかをこれから紹介しようとおもう。

「人を用ふるの者は、能否を択ぶべし、何ぞ新故を論ぜん」

まずは分けて訳してみよう。「人を用ふるの者は」とは単純に訳せば「うえにたって人を使う者は」って意味だけど、

もっとその言葉をふかく解釈してみると、人を使ってなにかをさせようとするとき、人選をして命令をだす者が心得ることはってこと。

「能否を択ぶべし、何ぞ新故を論ぜん」とは、能力があるか無いかで人選をしなさい、長くつとめているかどうかで選ぶのは論外だっていっているんだ。

現代の社会でもありがちなことだね。先輩だから、年長だから、会社に長くつとめているから、そんな理由で人選すれば失敗する。

仕事やプロジェクトの本来の目的は成果を出すこと、つまりその仕事に適した人材を選べってことなんだ。

またその人物を正しく評価する目を持ちなさいっていっているんだよ。

「生まれながらに才能ある者はそれに自惚れ、怠惰する」

これは訳すまでもなく分かるとおもうんだ。

生まれつきの才能がある人はそれにうぬぼれて、努力することをおこったてしまう。

生まれつきの才能がない人は、何とか技術を身につけようと日々努力する。さいごに勝つのは後者だっていってるんだね。

近年よく言われることに、天才や一流アスリートと呼ばれる人は、生まれつき才能があったわけじゃない。

並の人以上に努力に努力を重ねた結果で、むしろ努力する才能があるものが天才や一流といわれるひとたちなんだってね。

戦国のその時代に、この真理をさとった信長はやっぱスゴイね。

4.信長の名言(歌と舞)〜人生観

日々戦いにあけくれ、いつも死ととなりあわせにいた戦国の武将。

そんな信長が人間としての心をあらわすことば、人生観を、好んだ歌や舞のなかにさぐってみよう。

「死のうは一定。しのび草には何をしよぞ。一定語りおこすよの。」

これは信長の好きな小唄として有名なんだ。

その意味は「死はだれにでも訪れる。死後に(自分が)語り継がれる為には何をしておこうか。きっとそれを頼りに人々は語り継いでくれるだろう。」

では信長はなぜこの小唄がすきだったんだろう。

自分が死んだあとに語り継がれてほしかったから?いやそうじゃないとおもうんだ。

だって戦に出ていつ殺されるかわからないんだ、後世に語りつがれるような功績を残せるかどうかなんて分かりゃしないんだよ。

きっとそれは唄の出だしの「死のうは一定」、その一句に信長をひきつけた大半があるような気がするんだ。

ひとは誰でもが死ぬ、でもじぶんの死は明日かも知れない、いつ殺されても不思議じゃないじぶんの命。

だからこそ今しかない自分のいのち、死の覚悟と人生のはかなさをこの出だしの一句に感じて、信長のこころに響くんだ

「人間五十年 化天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか。」

この舞は、幸若舞(こうわかまい)という能に似た演目のひとつ「敦盛(あつもり)」の一節。

「人間五十年 化天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり。」の意味は、

人の世の50年の生涯ってのは、天の世界の時間に比べりゃほんの1日。まったくはかない夢みたいなものだよ。

「一度生を得て滅せぬ者のあるべきか。」は、いちどこの世に生まれてきたもので死なないものはないんだって意味。

ちょっと「下天」について説明すると、天界の一番したの界で1日が人間界の50年にあたって、その界の住人の定命は8000才なんだって。

それから比べれば人間の一生なんてほんの一瞬だっていってるんだ。

現代の考古学で地球の年齢約46億年にくらべれば、人類の歴史はほんの2秒くらいって言うのとおんなじだね。

でも戦国時代にそんな考えがあったなんておどろき。この敦盛(あつもり)」の舞を信長は好んで舞ったんだ。

また桶狭間の戦い(今川勢2万5千に対し織田軍3千で戦った必死の戦い)の出撃の直前にも舞ったという話が有名。

死を覚悟して戦いにのぞむ信長、死の恐怖をおさえながら、なお戦わなきゃならない想像をぜっするする緊張。

そんななかで舞う「敦盛(あつもり)」5.h2.信長最後の名言「是非に

が信長になにをあたえたんでしょう?なにを得ようとして舞ったんだろう?

及ばず」信長最後の名言

「是非に及ばず」

「是非に及ばず」を直訳すれば、良いとか悪いとか言うんじゃない、言ったてしょうがない、やむを得ないことなんだって意味。

これは本能寺の変で、信長がだれの謀反(むほん)なのかをきいたとき、森蘭丸が「明智の軍勢と見受けます」と答を聞いたときに放った一言なんだ。

自分はもうこれで最後(死ぬ)だとおもったときのことばなんだよ。

家臣にうらぎられたんだよ、ふつうこんなでいられないだろ。あのやろうよくもやりやがってとか、天下統一まであと一歩なんだよ。

じぶんはこれで死んじゃうんだよ、くやしいのが当たりまえだよね。

でもなんで「良いとか悪いとか言うんじゃない、しかたのないこと」なんて平常心で言えるんだろう。

これは何時どんなときも、つねに死を覚悟していた信長・人間そのものの言葉だとおもうんだ。

まとめ

波乱にとんだ人生をあゆんできた織田信長。

気まぐれで破天荒、ユニークで斬新な戦術、残忍と優しさの同居する武将、強靭な戦国の名将など、さまざまに伝えられている信長。

でもぼくには戦乱の天才武将というより、ブッタやイエスキリストのように、悟りに最も近づいた武将だとおもうんだ。

これまではなした名言はほんの一部でまだまだあるよ。もし信長に興味をもったら、もっと調べてみると面白いかもね。ではおしまい