石田三成 最後の1日、残した言葉とは?わかりやすく解説するよ

ひとむかし前まで石田三成(いしだみつなり)といえば、

優秀ではあるけど、よこしまな陰謀で豊臣秀吉の偉業を台無しにし、家康に逆らった奸臣(かんしん=腹黒い家臣)とされることが多い。

しかし最近では三成ゆかりの地に住む人々の名君ぶりを伝えるPR活動や、あたらしい史実で少しイメージがかわってきたんだ。

三成には多くのエピソードがあるんだけど、ほとんどが後世につくられたもの。

つまり徳川の世になり敗軍の将として、ことさら悪者のイメージをうえつけるため、ねつ造された話が多いのかもね。

ここでは最後の1日に至るまでと残した言葉から、石田三成の真のすがたにせまって見たいとおもうんだ。

容姿、風貌(ふうぼう)からうけるイメージ

石田三成の身長は156センチで小柄、骨格はかなりキャシャ。

顔も無骨というよりもおだやかで、戦国の武将というよりは頭を使う仕事にに向いているタイプのよう。

これらのデータは、残っている遺骨をもとに復元したものなので、かなり信憑性(しんぴょうせい)は高いとおもわれるんだ。

また色白で目が大きく、まつげは濃く、声は高かったと江戸時代の記録にある。

これらの容姿や風貌が、悪い意味では頭は回るけど腹黒いよこしまなイメージ。

よい意味では頭脳明晰(めいせき)で難問をテキパキとこなす戦術家タイプを生みだしているように思えますね。

アニメやドラマの登場人物でも、からだが大きく大柄なひとは、成績は悪いけどスポーツマンタイプで乱暴だけどおおらか。

ぎゃくにチビでかぼそい人は秀才タイプ。ヒーローや悪役になるのはこのどちらかのタイプ。

容姿からすると石田三成は後者で、ヒーローにも悪役にもなるタイプなんだね。

東西分け目の「関ヶ原の戦い」

天下統一をはたした豊臣秀吉のもとで、太閤検地などの革新的政策のおおくを実行にうつしたのは石田三成なんだ。

また秀吉の政策に不満を持った家臣も、ちょくせつ秀吉に怒りをぶつけることができないので、

それを実行している三成にあたり、家臣に人望がなく嫌われているといわれるのもその辺にあるのかもしれないね。

しかし豊臣家への忠誠心には半端ないものがあったようだ。

そして秀吉が世をさり政権が乱れてきたとき、ここぞとばかりに徳川家康が政権をのっとろうと勢力を拡大してきたんだ。

決戦の日

ついに豊臣家をまもるため、関ヶ原で決戦の日をむかえた。

石田三成は西軍(豊臣側)の大将(総大将は毛利輝元)として東軍(徳川側)をむかえうったんだ。

さいしょは西軍の兵力のほうが有利と思われていたけど、おもわぬ小早川秀秋軍や脇坂軍、小川軍のねがえりによって、形勢はいっきに逆転し、たった6時間でまけてしまったんだ。

三成の本陣も崩壊し再起をちかい伊吹山へと落ちのびてたんだが、ついに東軍の追っ手につかまってしまった。

そのとき追っ手の兵が「武士らしく自害するのがふつうなのに、どうしてしないんだ」と聞いたとき

三成は「自害するのは雑兵がすること、大将はなんとしてものがれて再起をはかるもの」っていったんだ。

これって逃げたいい訳のようにもとれるけど、豊臣家を再起できるのは自分しかいないと思った本心かも知れないね。

 

最後の1日〜最後の言葉

とらえられたのは石田三成のほかに小西行長や安国寺恵瓊(えけい)らがいたんだ。

そこで家康はいちおうみな大名だし、汚い服のままで処刑されてはしのびない。あたらしい小袖を授けようと、使者がもってきたんだ。

ふたりはうけとったが、三成は「これ(小袖)はどなたからですか?」と聞くと使者は「上様(家康)からです。」とこたえたんだ。

すると三成は「上様は、秀頼公以外にはいないのだ!なんという無礼な!そんなものはいらん!」と言って、受け取らなかったんだ。

関ヶ原の戦いに勝ったのは家康だ、でも家康はまだ豊臣の家臣のはず、上様と呼べるはずがない!という三成の弁もうなずける気がする。

処刑の日

三成ら3名は京都の市中を引き回されたのち、鴨川の六条河原(ろくじょうがわら)で打ち首の刑になるんだ。

処刑される直前に、のどが渇いた三成は、湯をのませてもらえないかと頼んだんだ。

すると「湯はすぐに用意できないけど、干し柿ならあるどうですか?」といわれ「いや、干し柿は痰(たん)の毒になるからいらない」とことわったんだ。

「これから処刑されて死ぬものが、毒を気にするのはおかしいじゃないか」といわれ

三成は「大志をいだくものは、最後の瞬間まで命を惜しむもの」とこたえたんだ。

これは有名なエピソードだけど、三成が意地をはったようにもみえるが、本気で大志をいだくものの心意気をかたったようにもとれるんだ。

まとめ

三成が総大将であったかのように処刑されたことに対して、おかしいと感じていた人びともいたんだ。

だって西軍の最大の責任者は毛利輝元であったはずなのに、助命されている。

たしかに関ヶ原で毛利は動かず、戦いに加わらなかったから処刑を免れたのかも知れない。

でもそもそも総大将が動かないのはおかしいじゃない?家康とウラ取引があったのかもしれない。

悪名と罪をせおわされて、死んでいったとも言えるんだよね。

石田三成という人物は奸臣(かんしん)なのか、義をまもった忠義のひとなのか。

最終的に天下を取った家康側からみた場合と、最後まで失うものを守ろうとした豊臣側からでは、意見がわかれるとこだよね。

さてあなたはどう感じましたか?

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