西郷隆盛 島流しの訳がヤバイ〜奇跡の復活までわかりやすく解説するよ

西郷隆盛(さいごうたかもり)といえば新しい日本をつくった明治維新の英雄。その西郷は若い頃に2回も島流しにされているんだ。

「島流し」とは昔の罪人が罰(ばつ)として、カンタンに逃げ出せない海の島に流される刑のことだよね。

どうして明治維新の英雄にもなるような人が「島流し」の刑に、しかも2回もどうして?そのへんを詳しくせつめいしたいと思う。

1回目の島流し

 

西郷隆盛は若くしてその才覚を島津斉彬(しまづ なりあきら=薩摩藩の君主)にみとめられ、

参勤の一行に加えられて4年間の江戸の勤務が始まったんだ。

斉彬(なりあきら)公は、始めから西郷を薩摩の重臣、腹心の部下に育て上げる考えでいたので、

諸侯にも紹介するなどして西郷の名前は次第に知れわたっていったんだ。

安政の大獄(あんせいのたいごく)

このころ幕府では十四代将軍の座をめぐって、

紀州藩の徳川慶福(とくがわ よしとみ)をおす老中・井伊直弼(いいなおすけ)と、

一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ)をおす島津斉彬(西郷の主君)、松平春嶽(越前藩)とのあいだで激しく対立していたんだ。

ところが安政5年(1859年)に斉彬公が急死してしまったんだ(暗殺されたという説もある)。

これをチャンスとばかりに、大老となった井伊直弼は反対派の大弾圧にのりだした、これが「安政の大獄」。

反対派の公家や大名、志士たちが大量に処罰されてしまったんだ。

月照(げっしょう)と入水自殺

身に危険がせまった西郷は、勤皇派(天皇を主君とするかんがえ、薩摩も勤王派)として京で活躍していた僧の月照とともに鹿児島へ脱出することになったんだ。

ところが斉彬が死んだあとのの薩摩藩には、幕府に対決する気などまったくなく、

帰ったものの追い詰められて絶望した西郷は、月照とともに船から海にとびこんで自殺をはかったんだ。

もちろん月照は男の僧、西郷にそちらほうめんの気があったんじゃなく、人間としての月照に心酔したんだろうね。

しかし海から引き上げられて、月照はそのまま死んでしまったけど、西郷は生きかえってしまったんだ。

自分だけが生き残ってしまったことは、かなりのショックで心におおきなダメージを残したんだ。

奄美大島への島流し

これにこまった薩摩藩は、先代の藩主斉興(なりおき)公の指示もあり西郷を死んだことにしちゃったんだ。

そして菊池源吾(きくち げんご)と別名の罪人にしたて、奄美大島へ島流しにしたんだ。

こうやって幕府の目をごまかすために、ほとぼりが冷めるまで3年間、政治の世界から姿をけすことになったんだ。

そのくらい西郷隆盛は薩摩にとって大切なひと、人望もあったということなんだね。

奄美大島でのくらし

 

奄美大島は鹿児島のはるか南、種子島や屋久島よりさらに南のはなれ島。島流しといっても幕府の追求をのがれるためのカモフラージュ。

だから罪人には異例の6石の支給があり、生活もわりと自由で、とりあえず食うには困らなかったようなんだ。

もちまえの性格で島民からも慕われ、

十ヶ月後には23才の地元の有力者の娘『アイガナ(愛加那)』を島妻(アンゴ)として結婚しちゃったんだ(チョット手が早すぎるんじゃない)。

そのご2年の間に一男一女がうまれます。長男は菊次郎といってのちに京都の市長に、長女菊子も陸軍元帥の弟夫人になったんだよ。

うらやましいくらい1回目の島流しはラヴラヴだったんだね。

愛加那(アイガナ)との別れと奇跡の復活

薩摩藩は斉彬(なりあきら)が死んだあと君主になったのは弟の島津久光(しまずひさみつ)。

ところが久光は中央での人脈がなく、政治手腕もあまり上手ではなかったんだ。

また兄の斉彬にかわいがられて才能のある西郷をはげしく嫉妬してきらっていたんだ。

しかし幕府と立ち向かっていくためには西郷の力が必要、そこでしぶしぶ側近の大久保利通を使って島流しから呼び戻すことになった。

こうして西郷はふたたび政治の表に復活することになったんだ。

でも当時のきまりで島妻(アンゴ)は本土には連れて行けない、愛しい愛加那(アイガナ)と涙のわかれとなってしまった。

こうして3年2ヶ月にわたる奄美大島の島流しがおわることになったんだ。

2回目の島流し

島津久光は薩摩藩兵を率いて上洛して、「公武合体」を推しすめるため顧問役とし西郷を使おうとしたんだ。

しかし西郷は久光の力量不足を見抜いていたので、上洛に反対したんだ。

そんなことで久光公と西郷の関係はますます険悪になったんだが、大久保利通の必死の取りなしでその場はとりあえず収まり、

ともかく西郷は久光公の先乗りとしてシブシブ鹿児島を出発したんだ。

ところが下関まできたときに、薩摩兵を幕府討伐と勘ちがいする志士たちのうごきを感じた西郷は、一刻の猶予もないと判断し、久光公の到着を待たずに単独で上洛しちゃたんだ。

もし久光公をまって上洛したなら、反乱軍として討たれていたかもしれないんだ。

3-1.h3.徳之島から沖永良部島(おきのえらぶじま)へ

しかし久光公は到着をまたなかった西郷に激怒し、ふたたび「島流し」の刑を言い渡した。

こんどは奄美大島から更に南方30㎞の場所にある徳之島(とくのしま)への流罪となってしまった。

そして3ヶ月後これでは刑が軽すぎるとして徳之島からさらに南30㎞にある沖永良部島(おきのえらぶじま)へ移したんだ。

この2回目の島流しは、前回とちがいきびしい監視がつく牢(ろう)にいれられ、死罪につぐ重罪人あつかいで、当然1回目にはあった扶持米もなかったん

牢獄(牢獄)生活〜2度目の奇跡の復活

その牢はかんたんな屋根を乗せただけの2坪くらいの狭いところで、食事は出るものの、雨風がちょくせつ吹き込むような最悪の環境だったんだ。

そんななかで西郷は一日中じっとすわって考え込む毎日。

そのうち牢番のひとり薩摩藩士の土持政照(つちもち まさてる)は、西郷の崇高な人格とやさしさにふれて、尊敬の気持ちを高めていったんだ。

そしてひどい環境を改善しようと、私財をなげうって牢屋の新築を行い、西郷も外を歩き回ることができるようにしてくれたんだ。

そのころ天下の情勢は外国からの脅威(きょうい)もあり揺れに揺れていた。

薩摩だけでなく日本が危ない、こんなとき西郷がいてくれたらという機運が高まり、有力藩士十数名が集まり、島津久光に西郷の赦免を直訴したんだ。

藩士の死を覚悟したせっとくに久光もついに折れて島流しから解放した。こうして西郷隆盛は政治の表舞台に2度目の奇跡の復活をしたんだね。

まとめ

政治的が迷路にはまり込むたびに「西郷頼み」。歴史の中でこういう人物が現れるのは、ひじょうにめずらしいこと。

でもこんなことは仕組んで出来ることじゃない。西郷隆盛のカリスマ性、人望、情に厚い性格、まさに幕末という激動
の時代が生んだヒーローなんだね

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