西郷隆盛 最後の戦い「西南戦争」にいたるまでを詳しく解説するよ

西郷隆盛(さいごうたかもり)といえば薩摩(いまの鹿児島県)藩士で、坂本龍馬(さかもとりょうま)とならび良くドラマなどにも登場する幕末のヒーロー。

当時あまり仲のよくなかった長州藩(いまの山口県)と薩摩藩とで同盟を結び、その薩長連合軍で江戸幕府をたおし明治維新をなしとげた中心的人物だよね。

新明治政府でも重要なはたらきをした西郷だけど、その新政府軍と戦うことになり最後には自決してしまったんだ。

どうして最後の戦い「西南戦争」をしなければならなかったのか、そこにいたるまでを詳しく話してみようと思う。

薩長同盟〜明治維新

江戸幕府は長州藩(幕府を倒そうとしていた)を倒すことで、世間に力をしめそうと薩摩藩に長州討伐を命じた。

それがもとで長州藩は薩摩藩を目のかたきにして憎んでいたんだ。

幕府にしぶしぶ従ったけど、長州とは戦いたくない、じつは倒したいのは幕府、でも自分たちだけでは力不足と思っていたんだ。

いっぽう長州は朝廷にきらわれて武器の購入を禁止されていたんだ。両藩とも幕府はたおしたいけど、おたがいに悩みをもっていたんだ。

そこで坂本龍馬が西郷隆盛(薩摩側)と木戸 孝允(きどたかよし・長州側)のあいだにはいって、互いにウインウインの薩長同盟が結ばれたんだ。

大政奉還(たいせいほうかん)

こうして薩摩藩と長州藩が協力した連合軍が、近代戦術をくしして幕府軍を追いつめ、

ついに慶応3年(1867)さいごの将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が政権を天皇に返すことになった。

これが世にいう大政奉還(たいせいほうかん)なんだ。

そのご江戸総攻撃も想定されたんだけど、西郷隆盛と勝海舟(かつ・かいしゅう)の話し合いで無血開城を見事に果たしたんだ。

これにより江戸(東京)が戦火にまきこまれることなく、鎌倉時代より約700年つづいた武家政治がおわり、天皇を主君とする新しい明治政府が誕生したんだ。

故郷・鹿児島にもどる決意

そのご新政府で参議や陸軍大将を任じられ、国の中枢として働いたんだけど、

対朝鮮に関する征韓論の論争で意見が対立し新政府をやめてしまうんだ。

論争にやぶれたのが一因ではあるけど、新政府の要人のふはいにガマンができなかったんだとおもう。

「維新創業の大事なときなのに、政府の要職に就く薩長人の中には、すでに住まいや衣服を華美にしたり、妾をかこったり、私的な蓄財に走っている。

義戦であったはずの戦もただ薩摩や長州の利を貪るための私戦になってしまい、世間に対しても戦死者に対しても申し訳ない。」

と涙ぐんだというんだ。こうして西郷は新政府をやめて、故郷・鹿児島にもどってしまったんだ。

私学校創設のもくてき

このとき政府・軍に仕えていた多くの鹿児島県士族も明治政府に失望し、西郷にしたがって鹿児島に帰郷したんだ。

そんな青年たちのためにも、また日本の将来のため、新しい時代に適応する教育が必要と「私学校」を設立したんだ。

当時の世界はイギリスはすでにインドや中国の一部を植民地化していたし、米国はペリーの来航等で日本に通商を求めてきた時代。

日本もいつ欧米諸国の脅威にさらされるか分からなかったんだ。「

私学校」のもくてきは、新政府への不満をいだく青年の目を外に向けさせ反乱をふせぐこと、

また国家が外国からの脅威などの非常時やあらゆる事態に即応できる人材を育成するためだったんだ。

政府軍弾薬庫襲撃事件

政府の改革により全国各地では士族の反乱や農民一揆等がおきていたけど、鹿児島だけは平静を保っていたんだ。

それはこの私学校幹部の努力のおかげなんだ。明治政府も鹿児島は西郷がいるから大丈夫とおもっていたんだ。

ところが私学校は県内に分校が130校にもなり生徒の数も1万人をこえるようになると、初心の意図がまったんまで伝わらなくなり、

教育機関というよりは政治団体のようになってしまったんだ。

そうなると政府にとっては不気味な存在になり、警戒感を強めて様々な圧力と挑発を繰り返し、ついにスパイを送り込んできたんだ。

私学校士族らが捕らえた政府スパイから「西郷暗殺」の情報を知って腹を立て、ついに政府軍弾薬庫を襲撃してしまった。

こうして西郷たちの努力は水の泡となっちゃったんだ。

西南戦争はじまる

こうして維新のヒーロー西郷隆盛は反逆者にされちまった。

弾薬庫襲撃者を政府に引き渡し、私学校を解散すれば、事件はおさまる。

だけどそんな仲間を売り渡すような真似はできない、かえって火に油をそそぐことになるかもしれない。

しかし体制の整わない士族の武装・出兵は、軍術のことをよく知っている西郷にはその無謀さは充分はわかっている。

しかし新政府の政策のなかでは誇りをもって士族は生きていけないのも充分にわかる。

その新政策をつくることに加担した自分をも、なお慕ってくれる仲間を無視はできない。

情にあつい西郷はここで苦渋の決断をするんだ。

「政府に意見するために兵をあげて上京する。途中で邪魔をするやつは容赦しない」

と私学校士族を中心とする1万3千の西郷軍を挙兵して戦いに挑んだのが西南戦争なんだ。

たとえ“負け戦”であっても士族たちの思いのままにさせ、それに殉ずる事。

時勢より情によって士族とともに生涯を閉じることを西郷は決意したんだと思う。

最後の戦いの地

しかし、西郷軍は熊本鎮台(熊本城)を落とことができず、主力は北上して政府軍と田原坂で激戦のうえ負けてしまった。

その後も劣勢がつづき、日向(ひうが=宮崎県)を敗走したのちに軍を解散したんだ。

それでも最後まで従いたいとする372名とともに九州山地を越えて鹿児島にはいり、最後の戦いの地、城山にこもったんだ。

そして山県を大将とする5万の政府軍が城山のまわりを包囲した。

これほどの戦力差は日本の戦史のなかでも珍しいくらい、西郷軍の負けはきまっていた。

政府軍は明日のあさ総攻撃をかけるから、本日午後5じまでに西郷が会いにくれば話し合いに応じるといったんだが、西郷は「回答の要なし」といい、その夜訣別のの宴をひらいたんだ。

運命の日〜最後の言葉

翌朝4時、3発の号砲とともに政府軍が銃を乱射し一斉に城山を駆け登り、各所の堡塁はつぎつぎに破られた。

のこった40名ほどが全員で自決しようと覚悟し岩崎谷の堡塁へ向かう途中、西郷の脇腹と股に銃弾があたり倒れてしまったんだ。

そこで西郷はいっしょにいた別府晋介に向かって「晋どん、もうここでよかろ」と伝えると、正座したんだ。

そして「ごめんなったもんし!」(お許し下さい)の掛け声とともに、別府の太刀が一閃して西郷の首は落ちた。

これが幕末〜明治維新のヒーロー西郷隆盛のさいごのことばなんだ。

まとめ

さいごの言葉「もうここでよかろ」の中に、西郷隆盛の人物像が凝縮されているような気がする。

西郷はカリスマ性も力も持っていたひと。だけどじぶんの意見を押しとおして人を動かすタイプじゃない。

「西郷どんが言うなら何処までもついていきます」とひとはいうけど、

「みなが言うならオレはついていくよ」ってのが西郷の本音のような気がする。

いまでも多くのひとから親しまれるのは、人情味あふれる西郷隆盛があってこそなんだね

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