豊臣秀吉はなぜ出世できたの?その理由を初学者でも分かるように解説するよ!

豊臣秀吉は農民(足軽)という低い身分から、天下人(てんかびと)という日本最高の地位までのぼりつめた、おそらく歴史上もっとも出世した人物だよね。

まるでアメリカンドリームみたいな夢物語。

ではどうしてそんな出世ができたのか、伝えられているエピソード・歩みや生涯などから解きあかしてみたいとおもうんだ。

1.h2.出世の足取り

秀吉のあだ名は幼いころは小ザル、成長するにつれサル→ハリネズミって変っていくんだ。

これはその顔だちや風貌、すばしこい行動なんかで付けられたとおもう。

それと同じように名前も、

名無しのサル→木下藤吉郎(きのした・とうきちろう)→羽柴(はしば)藤吉郎秀吉→豊臣秀吉(とよとみ・ひでよし)と変っていく。

これは功績がみとめられ出世するたびに信長などからなまえをもらったんだ。

ふつう身分の低いものに姓はなく名だけ、よく無名の人とか名無しのゴンベエなんていうだろ。

姓があるってことはいっぱしに認められたってこと、豊臣家のように○○家を名のれるのはそれなりの地位や城を持つ大名になったなった証拠なんだ。

そんな秀吉の出世の足取りをこれから探ってみよう。

ナゾの生い立ち

秀吉は今からざっと500年まえ戦国時代に、尾張の国(いまの愛知県)の中村いうところの農民の家にうまれたんだ。

父は弥右衛門(やえもん)、母は「なか」(後の大政所)っていうんだけど、うまれた年や誕生日がいつなのかよくわからないんだ。

え〜っておもうけど、よく考えりゃあたりまえのこと。

大名や武将の子どもならわかるけど、無名の農民の子どもの出生をだれが記録に残すっていうの。

秀吉が小さい頃に父親は病気で死んでしまい、母はべつな人と再婚、しばらくはそこで暮らしてたけど、サムライにになりたくて家を出た。

もちろんなんのコネもないのですぐ武家に奉公できるわけがないので、行商のようなことをしてブラブラしてたらしいんだ。

秀吉の幼少についてこれ以外にはほとんど何も記録がなくナゾがおおい。

そもそもだれの子かも不明という説もあるくらいなんだ。貧乏だったむかしのことをあまり言いたくなかったので記録がないのかもね

最初の武家奉公

若くして尾張の国を治めていた天才武将・織田信長(おだ・のぶなが)につかえることで出世したのはよく知られているよね。

でもじつはその前に今川義元の配下の松下之綱(まつした ゆきつな)に仕えていたんだ。

農民の子が、どうやってもぐり込めたのかわからない、持ち前のちゃっかりだったかもね。

その頃には藤吉郎(とうきちろう)と名のっていて、この松下家で文字、学問、武芸、兵法などを学んだって言われている。

正式な家来っていうより、素質をみこまれた勉強性みたいなものだったようだ。

そこでのエピソードに、城の蔵(くら)からよく物がなくなるので、ためしに藤吉郎に蔵の番をさせてみたんだ。

そこで藤吉郎はイヌといっしょに番にたったんだ、それから物がなくなるのが減ったってはなしがあるんだ。

そのころから藤吉郎はすぐれた機知(ウィット)をもってたんだね。でもそれでまわりから妬(ねた)まれちゃう。

気にした松下氏はおしみながらも、藤吉郎にあるていどの金をやって追放したといわれているんだ。

織田信長との出会い

これもまたどうやって織田信長の家らいになったのかは分からない。

でも秀吉が信長に仕えたことこそ、出世街道をかけあがっていけた最大の理由なんだ。

信長はいままでのしきたりや偏見にこだわらない、

ひとを登用(仕事を任命する)するのに年功や身分じゃなく能力で選ぶ、またそれを見抜く力を持った武将だったんだ。

農民の出だろうとかんけいない、はなから藤吉郎のスキルに目をつけていたんだろうね。

それで「サル」って呼びながら、可愛がって(能力をためしながら)仕事をやらせたんだとおもうんだ。

あったかい下駄(げた)

ある寒い夜に信長が下駄はこうとしたら、なぜかほんのりとあったかいんだ。

そこで信長は「おいサル、てめえ下駄にすわっていたな!」っていうと、

「いいえ寒いので懐(ふところ)で下駄を温めておりました」と藤吉郎がこたえたんだ。

それじゃ懐(ふところ)を開けてみろといって見ると、藤吉郎の腹に下駄のあとがくっきりとついていたっていうんだ。

それいらい信長は藤吉郎に目をかけたってエピソードは有名だね。

ほんとの話しかどうかはチョット疑問だけど、そのくらい秀吉は機知(ウィット)に富んでいたってこと。

ご機嫌とりがうまかったのかも知れないけど、とにかく信長をうならせたことにはちがいないよ。

墨俣(すのまた)の一夜城

これも有名なエピソード。一夜ってのは大げさだけど、そのくらいビックリするスピードで築城を完成させたってことなんだ。

信長は美濃(いまの岐阜県)を落とすための拠点として、墨俣(いまの大垣市)に城をつくりたかったんだ。

2度ほど家臣に命じてトライさせたけどぜんぶ失敗。そこで木下藤吉郎が「7日のうちに完成させます」と言上したんで、

それじゃやってみろってんで藤吉郎はまかされ、みごと短期間(7日ってのは後からもられた話し)でやってのけたんだ。

それには蜂須賀小六(はちすかころく)という野武士「川並衆」のとうりょう(頭)の協力が大きいんだ。

この「川並衆」は土木工事・利水工事につよく、舟を操ることや山岳の戦いにもつよい、

どの大名にも属しない独立した約2000人の野武士の集団。

そのころはまだ無名だった木下藤吉郎が、どうやって蜂須賀小六の「川並衆」の協力をてにいれたかはナゾなんだけど、

2000人の兵力っていえば数万石の大名とおなじくらいの戦力なんだよ。

これを味方につけた木下藤吉郎は、木曽川の川を利用して資材をはこぶアイデア(陸上をはこぶ何倍ものスピード)で、

ふつう2〜3年かかる築城をあっというまの短期間でやっちゃたんだ。その功績が認められ秀吉はどんどん出世していくことになるんだ。

本能寺の変

こうやって機知(ウィット)とアイデアで次々と戦果や功績を上げ出世した秀吉は、

信長の天下統一最後の宿敵、中国地方の毛利(もうり)氏をたおす総大将にばってきされ、羽柴(はしば)秀吉と名をもらって姫路城に本拠をおいて戦っていたんだ。

そしてあともう一歩てとこで信長の出馬をまっていたところ、

あの有名な本能寺の変、明智光秀(あけちみつひで)の謀反(むほん)で主君信長が死んでしまったんだ。

それからの秀吉の早さはすさまじい。

対決していた毛利勢をまたたくまに講和にまでこぎつけ、いそいで兵を揃えて高松城(岡山)から京都までひきかえし、

本能寺の変からわずか11日、山崎の戦いで主君の仇(かたき)明智光秀をうちとったんだ。

毛利軍との戦いをおわらせ兵を整え、岡山から京都まで移動して明智光秀をうつまで11日。

いまでこそ新幹線とか飛行機があるけど、当時の移動手段は走るか馬しかないんだよ。

さらに重たい鎧(よろい)や刀を持って走ること想像してごらん、すさまじい強行軍だったとおもうよ。

天下人(てんかびと)豊臣秀吉

こうして信長の意志をうけついで天下を統一した秀吉は、朝廷から豊臣の姓をいただき、

武士のトップの地位・関白(かんぱく)太政大臣(だじょうだいじん)となり、名実ともに天下人(てんかびと)豊臣秀吉にまで出世街道をのぼりつめたんだ。

農民のうまれから、仕官しておよそ30年で足軽から関白まで出世した。

身分の何もないところから最高のトップまでのし上がった人は、歴史上この豊臣秀吉をおいて、ほかにいないんじゃないかな。

まとめ

豊臣秀吉が天下人まで出世できた理由は、すぐれた機知とかスバシコイ能力だけでできるものじゃないとおもうんだ。

奇才といわれた名将・織田信長にひろわれたこと、家臣に戦略の名将・徳川家康がいたこと、野武士の頭・蜂須賀小六とであったこと、

そんなもろもろの運命が天に味方したこと。

よく天才は運をも引き寄せる才能があるっていわれるように、秀吉も運を逃がさない、そんな力があったような気がするん

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