魔裟斗という格闘家をご存じですか?
現在は既に引退してしまいましたが、“反逆のカリスマ”という愛称で現役当時は人気を博した「K-1」中量級のスター選手でした。
本の中でも触れられていますが、かつて「K-1」といえばヘビー級が花形で、大きな外国人スター選手が生まれる中、中量級の人気向上に大きく貢献した選手と言えます。
今回は、そんな魔裟斗選手の自伝「青春」を紹介したいと思います!
1. 少年、小林雅人
後に「K-1」で世界王者・魔裟斗となる小林雅人少年は1979年3月10日、千葉県柏市で生まれました。
父は陸上自衛隊勤務で、日々の体力づくりを欠かしたことはなかったと言います。
雅人少年も、3歳の頃には基礎体力をつけるためという名目でスイミングクラブに通わされることになります。
小学生になるとさらに、毎日30分のランニングというノルマも課されることになるのです。
父が出張などで家を空けるときにはやらなくていいのかというと、そうはいきません。なぜなら、父よりも母の方が厳しかったからです。
小学校から帰宅し、ランニングをサボって家でマンガを読んでいた時、母と次のようなやりとりがあったと言います。
「雅人、スイミングクラブで一番になれたの?」
「いや、まだだけど・・・」
「一番にもなれないでなんで家の中にいるの!さっさと外を走ってきなさい!」
その時の母の鬼の形相は、今でも覚えていると魔裟斗は言います。
そんな雅人少年は、超がつくほどの恥ずかしがり屋でした。
国語の授業で席順にひとりひとり立って段落ごとによんでいく場面では、教科書を開いて立ったまま20分くらいたちつくし、そのまま授業が終わってしまったこともある程です。
テレビでもよく見かける存在ですが、今でも恥ずかしがり屋、人見知りはなくなっていないと言います。
中学生になった雅人少年は、バスケットボール部に所属し、スイミングクラブとバスケ部を日曜日を除いて毎日こなすという殺人的なスケジュールを送っていました。
あとにもさきにも中学生時代ほど忙しかったことはないと言うほどです。
それでもがんばれたのは、バスケットボールをやるということが、自分自身で決めた初めてのことだったからです。
超のつくほど初心者だったにもかかわらず、入部早々にレギュラーになることを明確な目標とし、それを実現するのです。
しかしそういうことに反動はつきもので、中学3年で部活を引退後には、やりたいことも見つからずついには地元のヤンキーと遊ぶようになってしまいます。
2. 格闘技との出会い
高校に入学しても自分のやりたいことが見つからなかった雅人少年は、両親に高校を退学することを打ち明けます。
真面目に通うつもりのない高校に3年間も無駄な授業料を払うのはもったいないと思ったからです。
その旨を打ち明けると、父親からこんなことを言われます。
「それでお前は、高校をやめて何をやりたいんだ?」
雅人少年は、咄嗟にこう答えます。
「ボクシングをやってみようと思ってるんだ。それで、どうせやるんだったら本気でジムに通ってプロになれるようにチャレンジしてみたいんだ。だから、高校を退学して、昼間は働きながらボクシングをやってみたいんだ。」
とっさに今まで考えたこともないようなことを言ってしまったと、魔裟斗は振り返ります。
しかしある意味では、追い詰められた雅人少年の心の中で、ずっと見ないようにフタをしていた隠れた本心が露呈したとも言います。
そして雅人少年は、水泳とバスケットボールに打ち込んでいたように、ボクシングの練習に打ち込みます。
当時のスケジュールは次のようでした。
朝5時にロードワークをこなし、朝6時には建設現場での仕事場に向かい、朝8時~夕方の5時まで肉体仕事。その後、夕方6時~夜8時まで、ボクシングをみっちりと練習。
これを毎日続けた雅人少年は、なんと1年半でプロテストを受けるというところまで上達するのです!
しかし結局雅人少年は、プロテストをドタキャンしてしまうのです。
プロテスト一週間前というとき、雅人少年は昔遊んでいた地元のヤンキーとたまたま遭遇し、1日くらいいいか、という理由で遊んでしまったことが原因で、これまで張りつめていた意図がぷっつりと切れてしまったと言います。
1度でも誘惑に負けるとそれが呼び水となり、瞬く間に取り返しのつかないほどの大波にのまれ、それまで培ってきたものすべてがめちゃくちゃに破壊されてしまうということを学んだと魔裟斗は語ります。
何はともあれ、これが魔裟斗と格闘技の出会いでした。
3. 魔裟斗、覚醒
結局ボクシングもやめてしまい、再び地元のヤンキーと夜遊びをするようになった雅人少年は、その仲間がキックボクシングを習い始めたという理由からいっしょにやり始めます。
そこで出会った藤キックボクシングジムの加藤重夫会長との出会いが、雅人少年の運命を大きく変えることになるのです。
加藤会長は、極真空手創始者の大山総裁の直弟子であり、多くの空手家を育てたことで有名でした。
そんな加藤会長が、サンドバッグを殴る雅人少年を見て一言。
「お前、キックボクシングのチャンピオンになれるぞ」
と言ったと言います。
加藤会長は、選手をもちあげ、やる気をださせながら育てるのがうまいのです。
雅人少年はキックボクシングジムに入り、練習を重ねていきました。そして、1997年17歳の若さでプロのキックボクサーとなったのです。
リングネームは“魔裟斗”
画数が徳川家康と同じで、将来必ず天下を掴み取れるようにと考えられたそうです。
魔裟斗はもちまえの練習量で、キックの全日本チャンピオンになった。それは同時に、さらに上の世界を見ることにもつながるのです。
プロのキックボクサーは、ただ勝負に勝てばいいわけではなく、お金をはらってみにきてくれるお客さんをいかに盛り上げ興奮させるか、ということまで考えるきっかけとなりました。
そして、それを実現しているK-1ヘビー級にジェラシーを抱くことになるのです。
魔裟斗はこのとき、決意します。
「テレビをみている人たちも含めてK-1ヘビー級ファンの人たちを、ごっそりそのままキックボクシング中量級に奪い取ってやる!」
しかし所属していた全日本キックボクシング連盟は協力的でありません。
魔裟斗は連盟を脱退し、フリーで活動するという賭けに出るのです。
4. 挫折と地獄のトレーニング
ついに魔裟斗にチャンスが訪れます。
何と石井館長が、K-1で中量級の大会を開催するということを提案され、魔裟斗も出場することになったからです。
こうして魔裟斗は、「K-1J・MAX」という日本大会、「K-1WORLD MAX」という世界一決定トーナメントまで盛り上げることができたのです。
この背景には、もう一つ理由がありました。
魔裟斗は、中量級の試合が注目を集めるため、そして魔裟斗自身が注目を集めるために、あえて過激な発言を繰り返すようにしたのです。
「俺は他の奴らより強さのレベルが全然違うから、毎晩夜遊びしてても余裕で勝つことができるんだ」
「俺にとって『K-1』は成り上がるための手段。もっと有名になって、大金稼いで、いい車のって、いい女連れて、欲望を満たすためにやってんだよ」
メディアは面白がってとりあげました。
そして日本トーナメントでも優勝しました。
しかし、魔裟斗は度重なる過激発言から完全に悪者になってしまったのです。
日本トーナメントでも、メディアは魔裟斗を倒せ!という取りあげ方をするし、8名の出場者の中でも、まるで1対7で戦っているかのようだったのです。
それでも、魔裟斗は自分が面白い試合をすればスターになれると信じ、地獄のようなトレーニングを積み重ねていきます。
周囲の論調や誘惑に負けず、ひたすら努力を積み重ねたのです。
当時の練習は次の様でした。
代官山の伊勢道場でキックのスパーリングやミットうちなどを2時間。その後五反田のワタナベボクシングジムへ移動し、パンチを主体にした練習を2時間。
そしてラストに、トレーナーで有名なケビン山崎さん指導のもと、ウエイトトレーニングを2時間。
これを、周囲に公開することなく打ち込んだのです。
理由は、メディアには「練習しなくたって勝てるんだ」ということを公言していたからです。
魔裟斗の筋肉「鋼の肉体」をつくりあげたのは、このような地獄のトレーニングがあるからこそなのです。
5. 挑戦
日本では敵なしだった魔裟斗にも、世界にはライバルがたくさんいました。
初代K-1MAXの世界王者、クラウスや、ムエタイ最強戦士ブアカーオ、魔裟斗に2度の負けを味わわせたアンディ・サワーなどです。
初めてクラウスと戦ったときには、衝撃を受けたと言います。ボクシング出身のクラウスのパワーとスピード、そしてテクニックに圧倒されて敗戦したからです。
それでも魔裟斗は、約半年後に決まったクラウスとの再戦に向けて、ここでも地獄のトレーニングに臨みます。
半年でプロボクサー並みの技術を身に付けようと、アマチュアボクシングの日本チャンピオンからプロの日本ランカーまで、幅広いボクサーたちと実戦さながらのスパーリングを積み重ねたのです。
そしてついに、魔裟斗は並み居る強豪を押しのけ世界王者となるのです。
魔裟斗は、強いライバルがいるほど彼自身も強くなっていくのです。
初の世界王者となった後、スランプに陥って勝てなくなってしまうのですが、そこから這い上がり後に2度目の世界王者となれたのも、強力なライバルがいるからこそなのです。
6. 魔裟斗の引き際の美学
魔裟斗は30歳で引退します。
このとき、パワー、スピード、スタミナ、どれをとっても進化しつづけていたにもかかわらず。実際、2度目の世界王者となったのも、引退を決断する前最後のトーナメントでした。
そこには魔裟斗の美学があったのです。
「最強の自分のままリングを去ることが、一番カッコいい引き際だと思った」と語っています。
最終戦は、魔裟斗に2度の苦杯をなめさせた最強のライバル、アンディ・サワーでした。
きれいな形式ばった引退試合ではなく、ファンの記憶に残る激闘の末、魔裟斗は勝利を収めたのです。
7. おわりに
魔裟斗という存在、生き方は、男でも「カッコいい!」と思ってしまいますよね!こうしたかげには、地獄のようなトレーニングがあったのです。
日本の今の格闘技人気があるのも、魔裟斗のおかげといっても過言ではないですね!