おおくの企業で新入社員の選考のとき、いちばん重要視するのがコミュニケーション能力といわれています。
また、社員を養成するためにおこなわれる研修会の題材として、とりあげられることも多いとききます。
また、このスキルを伸ばすためのノウハウ本や、コミュニケーションにまつわる記事がたくさんでています。
このように、ビジネスマンに必要なスキルとして多くのかたがとりあげています。
ここでは、その本質をみつめながら、すこし変った見方・すこし変った切り口から「コミュニケーション」についてお話してみたいとおもいます。
「コミュニケーション」とは何かを、もういちど見つめなおしてみる
ビジネスマンにコミュニケーションが必要とされるのは、会社で仕事をしていくうえで、ひとりではすべての作業をこなすことができません。
かならず他の人と協力する必要があります。
同僚・部下・上司さまざまなひとと意見の交換をしたり、アドバイスをもらったり、指示をしたり、資料を読んだり、作業に必要なものをあつめたり…。
コミュニケーションとは会話をすること?
もちろん相手とはなしをするのは、たいせつな要素です。会話は相手とのキャッチボールとよくいわれます。
会話でコミュニケーションをとるには、自分の意見をはっきり相手に伝えることも大事ですが、そのまえに、相手の話をよくきくこと、
相手がなにを伝えようとしているのか理解することから、お互いの信頼がうまれコミュニケーションができあがる、などと良く言われます。
でも、それだけでしょうか?
ひとの作ったものは、すべてコミュニケーション
たとえば、あなたが本を読んだとしましょう。本のなかで作者が表現したいと思っていること、読者に伝えたいと思うこと、またそこには、本を読んで内容を理解しようとするあなたがいるのです。
共感したり、あるときは「ちょっと違うんじゃないの」と反発したりもします。
もうそこにコミュニケーションが存在します。ですからコミュニケーションは、会話だけにとどまらず、文章・本・映画・絵画・音楽・宗教etc.
およそ人間がつくりだしたものと、あなたとの関係において、すべてに存在します。
「技術(わざ)」と「スキル」
コミュニケーションスキルを高めるためのノウハウとして、「つたえる(話す)能力」「うけとる(聴く)能力」、
ミラーリング(ことばのとおり「鏡合わせ」のように、相手の動作や姿勢、表情などの目にみえる部分に合わせるスキル)や
ペーシング(目に見えない部分、話しのスピード、声のおおきさ、声のトーン、口調、そして相手の呼吸などに合わせていくこと)などの手法がいわれています。
しかしこれらは、あくまでコミュニケーションスキルを高めるための「わざ」です。
技術(わざ)だけでは得られない「スキルの本質」は他にもあるようにおもえるのですが、いかがでしょうか。
まえに、人間がつくりだしたものと、あなたとの関係において、すべてにコミュニケーションが存在するとお話しました。
ここで大切なのが「あなたの存在」そのものなのです。
コミュニケーションと宗教
ビジネス・コミュニケーションにとっては、宗教などまるで関係ないとおもうかたが多いと思います。わたしも以前はそう思っていました。
しかし、あるとき禅(ぜん)にかんけいする本を読んだとき「ちょっと待てよ」、「ひょっとしてその中に、コミュニケーションの本質」
「現代のビジネスにも通じるヒントがかくされているかも?」とおもうようになったのです。
関係ないとおもわれるかたは、どうぞ飛ばして読んで下さい。
「あなた」は世界(うちゅう)の中で「唯一(ゆいいつ)無二の存在」
地球上にはたくさんの、さまざまな人たちが生きています。また、ありとあらゆる動物や植物がすんでいます。
宇宙のなかには、人類とおなじような生物がいるかもしれません。しかし「あなた」とおなじものは、ぜったいに存在しないのです。
考えてみてください、あなたと全くおなじ姿・かたちをしているひとや、おなじ考えや、性格をもつ人って、ありえないでしょう。
あなたと全くおなじ個性をもつ人間は世界中にひとりもいないのです。
「自分は個性がない」とおもっている人・・・それは、「個性」の本質のとらえかたがちがうからそう思うのです。
ひとより目立つ存在が個性ではありません。ひとより変っているのが個性でもありません。「あなたの存在そのものが」個性なのです。
それとおなじで、コミュニケーションをとろうとしている相手も、世界中でただひとりの個性的な存在なのです。
そう考えると、スキルを高めるために学んだコミュニケーションの「わざ」は、時とばあいによっては、まったく役に立たないこともあるのです。
その「わざ」は、不特定多数のひとに役立つように書かれたもので、「あなた」のために書かれたものではないからです。
では「あなた」とは誰?
「じぶん(わたし)とはいったい誰なんだろう?人はなぜ苦しむのだろう?」この問いかけが、宗教のはじまりです。
ブッタ(お釈迦)は、ずーっとこの問題になやんでいました。
38才のとき、菩提樹(ぼだいじゅ)の木のしたで、星を見あげていると「なぁ〜んだ、わたしはそこにいるじゃないか」と悟ったといいます。
我(エゴ)をおとし、無になれば、回りをとり囲む全宇宙とつながり、すべてのものと一体となり、「あるがままにある自分がそこにいるではないか。
もうそこには、苦しみや悩み、不安もふっとんでしまい、永遠のやすらぎがあるではないか」。
これは、究極のコミュニケーションではないでしょうか。
真のコミュニケーションスキル
コミュニケーションスキルは、まず相手がなにを伝えようとしているかを理解する「うけとる(聴く)能力」からはじまる。
しかし、相手の個性は、世界中でただ一つのもの。そんな相手を完全に理解してきくなんて、不可能に近いとおもいませんか。
わたしたち凡人はブッタのようにはなれないけれど、すこしでも我(エゴ)をおとし、
「こんな助言をすればカッコイイのでは」とか、「こんなことをいってあげれば相手は感動するだろう」などという見栄をすて、
無にちかい状態になろうと努力すれば、あるがままの相手が見えて、あるがままの自分の意見がしぜんと浮かんでくるのではないでしょうか。
これこそが「わざ」のコミュニケーションスキルではなく、真のコミュニケーションスキルに近づく方法ではないかと思います。
余談〜「仏教」と「キリスト教」と「イスラム教」
ブッタ(お釈迦)がひらいた仏教、イエス・キリスト(神の子の教え)をひろめたキリスト教、ムハンマド(モハメッド)の予言をといたイスラム教、これら3つが世界三大宗教といわれています。
それぞれ「お経」「聖書」「コーラン」という教典・聖典によりその教えが後世につたえられています。
ではなぜ、こんなにも世界中のおおくの人びとに共感・感銘をあたえ、2000年もの長いねんげつを経ても、その輝きをうしなわずに伝えられてきたのでしょう。
それは3人の覚醒者(悟りを得たひと)をはじめ、その弟子たち、また、そのことばや教え、予言を文字にし書・聖典にまとめあげた人たち、伝導してひろめた人びと、
それらすべてのひとのコミュニケーションスキルの高さにあると、わたしはおもっています。
イエス・キリストやムハンマド(モハメッド)もブッタとおなじように「じぶん(わたし)とはいったい誰なんだろう?人はなぜ苦しむのだろう?どうしたら人を救えるのだろう?」と悩みになやみ続けて、ついにあるときフッと悟りをひらいた方々です。
表現やことばは多少ちがっても、一瞬にして全宇宙とつながったひとだとおもいます。
教えの真意とビジネスとのかかわり
仏教とキリスト教はビジネスを否定しています。イスラム教だけは肯定しています(ムハンマド自身が商人だったため)。
しかし、仏教もキリスト教もビジネスそのものを否定しているわけではありません。よこしまな考え、欲望のためにおこなう行為がいけないといっているのです。
たとえば、売ろうとしている商品に少し欠点があったとしましょう。
「わざ」だけのコミュニケーションスキルでその欠点をたくみにゴマカシ、売りつけてしまうような行為・利益だけを追い求めるようなビジネスをいましめているのです。
むしろこの商品にはこんな欠点があるけれど、それに変る利点もあると説明したほうが、ぎゃくに誠実な会社の商品だと信頼を生む結果になるかもしれません。
相手が望んでいるものを提供するするのがビジネスの真意です。それにともなって得られた結果が利益・お金です。これはけっして不当なものではないとわたしは信じています。
またイスラム教には「喜捨(きしゃ)」という商人の倫理があります。
まともな取引で儲けることはいいことなんですが、儲けっぱなしで、財産をため込むことは卑しいこと、儲けたなら、それを貧しいものに施すことを勧める教えです。
これは現代のビジネスシーンでもいえるとおもいます。企業の利益を社会に還元するというかんがえです。そうすることにより企業のイメージアップにつながるともおもいます。
それを実行するのに必要なのは、こんどは企業そのものの真のコミュニケーション力が問われるとおもいます。
まとめ
ビジネスマンに必要なスキル「コミュニケーション」とは、「わざ」だけのコミュニケーションスキルを身につけることだけではなく、
真のコミュニケーションスキルを身につければ、どんな局面や、どんな場合にも対応できる能力がえられるのです。
それはあなた自身の我(エゴ)をおとす努力からはじまるのです。